精神性

氏の絵画作品には変化と固執が見られるが これらを通した中に変わらぬものがある。これは不変性であり作品の様式や画題を越えて感じる事が出来る氏の精神性である。これも不可視なものであるが この不可視な精神性の有り様を明らかにした所に 氏の最大の特徴があり 功績がある。このような本質と必然の高さと深さを充分に理解した精神性の存在こそ 希有である。
しかし氏の精神性には ある偏りと暗さが見られる。これは基本的な審美眼だけでは掴みきれないものを含んでいるだけでなく 執拗に繰り返されて描かれる同一の画題 同じ場にいながら無関係な関係性 描かれた人々の表情の暗さ (描き直された人物画や「カラスのいる大きな構成」などは別である)などである。この氏の作品の特徴でもあるものは 氏の単なる好みではなく辿った人生や民族的な特性 (氏はラテン系ではなくゲルマン系) とも言えるが 氏が見通す本質が有する暗さの反映である。物事の本質の多くは明るいとは言えない。シャシー時代の陽光の明るさや日常の純粋性を忘れてはならないが ここでも自らは陽光を浴びていない。やはり氏の本質は 開放よりも閉鎖にあり 自らをある特定の領域に閉じこめ ここで微妙なものは発酵させ そっと掬いあげる。これはまるで中世の錬金術師のような超論理的な手法が 用いられているように見えなくもない。しかしこの言い方は確かに氏に似合うが やはり創造の飛躍であり それは知性と知力 そして精神性によって支えられている。そしてこの偏りと暗さを持つ気高い精神性こそ 陰を知らない正統派の単純さでは掬いきれない 心情と神経の襞の微妙な明暗を表しうるのである。
つまり氏の大いなる精神性の奥底には大いなる良きもの 不可視な本質と真善美が秘められており これがいかなる偏りと暗さであろうと ある調和を得る力となっているのである。

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同じ金魚を描いてもこうも異なる。マチスの「金魚」は感情を軽くする快さがある。つまり暮らしの中の何気ない情景に日常の純粋性を表している。これはシャシー時代のバルテュスと同じである。しかしバルテュスの「赤い魚」は小さき生き物の可憐さや純粋性よりも 命の深遠なる神秘さえ伺わせている。この違いを表現者の精神性の違いではあるまいか。

最後に

これまでの氏の作品に対する印象は 幼さの残る娘達による淫靡を伴う官能を描いた画家と言った面が強調されていた。そして気を許せば たちまち落とし穴に落ち入りそうな油断のならなさによる緊張感などへの評価の高さはあったにしても。全体像はあくまでも曖昧であったのでないか。また陰の世界を描いたような作品では まことしやかな秘密めかしとも受け取られかねなかった。さらに絵画表現の変革の最中にあった20世紀絵画において 時代のあだ花的な存在として見られていた面もある。しかしこれらは氏の画業の全てから見て 果して的を得ていたのであろうか? それとも一部分にしか過ぎないのだろうか? やはり創作者はその全貌を通して評価すべきであり 作品ごとの善し悪しや 一つの基準のみで評価する事は狭量なはずだ。
氏は若くしては挑発的な魅力によって見る者を惑わしもしたが これはその正体を暴くためではなく 秘められたものの重要性を明かにするためである。また氏は過去とのつながりを断って 自らがつけた足跡と付いてくる影を忘れた気ままさを謳歌する人ではなく 時間の経過の中で沈澱するように秘められたものを 聖なるものとして掬い上げた。これらはある場所に集められ 一つの世界が創られた。この世界に氏は自ら囚われる。これは聖域の構築のためであり 守護するためである。全ての秘め事には隠された理由があるが その理由を知る者こそバルテュスである。そして氏の正体こそ秘められた者であり 秘められた守護者なのである。氏の精神の気高さと重々しくあろうとする態度は この重責を果たす者に相応しいはずだ。

「鏡猫 3」から最晩年に渡る作品を「無惨・・・」と言う人がいる。これは「モンテ・カルヴッェロの風景 2」や「マンドリンと若い娘 (期待)」なども含まれている。これらは確かに形態と構成の秩序を失っている。この理由は老いによる混乱かもしれないが これらの作品のほとんどは大画面であり 氏はそれを選んでいるのだ。老体にむち打ちながら制作を続ける姿は 自らの絵画世界との同化を果たそうとしているように 私には思える。まるで苦行僧のように。その後姿からは 人生の全てをかけた画業の質量を創り出すための労苦を思い起こさせ 自分の作品を愛好してくれる人達の期待や各時代の流行に迎合する事なく 自らの創作を貫き通してきた者の意志をにじませている。

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