また青年期から大戦中とその後の時代に多く描かれた肖像画では 人物の外見を通して内実を見つめている。この内実は不可視なもので 皮膚の下に隠されている実体である。これらの肖像画では描かれた人物に敬意を払って その精神性を大切に扱っているが これはバルテュス自身の精神性の反映でもある。
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それから擬人化や可笑し味を持った作品も同じである。食通を猫に例えて擬人化した「地中海の猫」。王のように尊大で威厳のある馬を描いた「スパヒと兵士」。いじけた表情を見せる犬と飼い主を描いた「ポントワ−ズの郡長 (ムシュ・イライレ)」。そして最初の自画像である「猫の王」では自らを道化のように扱っている。これらも非現実を写実した不可視な世界の具現化である。

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より高い次元へ

氏は若くして生涯を代表するの作品を描いてしまっているが その後の変化とさらなる進展によって至った到達点こそ重要である。若い頃の作風だけでも充分に通用するのだが それに満足して同じ地点に留まろうとはしていない。また皮膚の下の真実や不可視なものを次々に見つけていくのではなく 画題を限定しながら それまで行なってきた表現を集積させ より高い次元に到達させようとしている。これこそ氏の創作態度であり これ抜きに氏の作品を語る事は出来ない。
この例は晩年の「モンテ・カルヴッェロの風景」や「青いスカーフを持つ裸婦」などの立ち姿の作品 さらに「鏡猫 1,2」と「鏡猫 3」である。「モンテ・カルヴッェロの風景 」では それまでの風景画で明らかにした不可視な存在を 生の彼方にある黄泉の国のように描き出している。ここには一種の昇華が感じられる。風景画にこのような精神性の高さと深さを与える事は 自らの悟性を表していると言えるだろう。さらに「青いスカーフを持つ裸婦」では それまで様々に工夫された姿勢が この立姿に集約されているように思える。ここには虚飾のない厳然たる構築物のように確固であり 幼さの残る裸体は純然な抽象性を獲得している。そしてこの若い娘の意志は人間性の可能性さえ指し示しているようだ。つまりその立姿と意志は裸体の魅力を越えて 確たる存在として純化しているのである。さらに「鏡猫 3」では それまでのトランプを扱う人々などのような他と関係を持たない独立した一つの世界から 3つの要素(若い娘 鏡 猫 )の関係によって成立する世界を実現している。つまり「トランプをする人々」の世界は二人の関係よりも 他と関連を持たない故に成立する世界であった。しかし「鏡猫 3」は内部に必然的な関係を持たせる事で成立する世界である。これは「赤い魚」でも試みられているが それは一つの中心から生じる周りとの関係であった。「鏡猫 3」は異なるものでありながら 必然的な関係を持っている。この事の方が存在の原理として自然であり 豊かな広がりが生じる。そして必然性を持つ関係とは まさに三位一体の関係であり 宇宙における惑星間の関係を見い出す事もでき。これ故に「ここには宇宙がある。」と言われるのである。バルテュスは関係に必然性を見い出す事で 一つの世界の構築に成功したのである。完全な一つの世界を絵画に表し得る事は 大いなる成功であり 具象絵画の表し得る頂点である。

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