* 6 よく言われる官能性とは。

娘達の裸体は多く描かれているが よく言われる官能とは一体何を指して言われているのだろう。バルテュスは官能性についてクールベの「眠り」を例に挙げ「私には二人の裸体よりも 左下の青いガラス瓶を官能的に見える。」と述べている。これは正しい見解である。「眠り」の二人のからみ合う裸体はもちろん官能的であるが 私達はもっと別な官能にも眼を向けねばならない。バルテュスの作品で官能的と言われている例をあげると 青年期の「若い娘と猫」などを挙げる事ができる。これは幼き者でありながら さりげない性の露呈で見る者を惑わしているが 官能そのものを描いているとは思えない。「美しき日々」はどうだろう。この自らの美しさに見入る娘からは 自己愛とその美の儚さを見て取る事ができる。しかしここではクールベの「眠り」のような肉体的で直接的な官能ではなく もっと心理的な官能性が扱われていると言える。だが「美しき日々」の着衣の乱れと そこから伸び出た手足は 肉体的な官能性と見る事ができるし 直接的な要素を加える事で具体的な魅力を与えている。この間接的で精神的だが 直接的な要素も忘れない所が巧妙さであり 理想に流されないバルテュスの現実性であろう。また別な官能性もある。シャシー時代に描かれた「夢 2」は眠りの中に訪れる甘味な幸福感を描いているが これは完全に肉体的な官能性を排して心情的な官能性を描いていると言えるのではないだろうか。このようにバルテュスの官能性は 直接的であるよりも間接的であり 心理や心情に関する官能性にこそ強い関心を持って描かれていたのである。
5_8_1

*7 なぜ顔や身体を変形させるのか。

描かれた人物達はその顔立ちや身体に大きな特徴がある。それは「街路」に見られるような異形を描く事である。ここには丸顔や三角顔が見られ 老婆のような幼女や頭頂部が平らで額が狭く 目鼻が T 字型の顔などが描かれている。これらはバルテュスが整っている形よりも変形した形への関心を持っていた事を示している。これらの手法は強調や単純化による異形化であるが 現実に見られる様々な人の顔や形は整っているよりも不均衡の方が多い。この事は冷静な観察眼を持ってすれば明らかであり バルテュスも現実の実体を不均衡であると見なしていただろう。そしてこの不均衡さとは一種の醜さでもあるが バルテュスの行なった異形化は不均衡さ つまり*醜さを喜劇性を帯びた道化に転化する事で 可笑し味と奇妙な魅力を生じさせている。この着眼と技巧は鋭い観察と高度な技によって 成し得ている事は言うまでもないだろう。
しかしバルテュスはこのような異形ばかりを描いているのではなく 素直にあどけない娘達も描いいるが これらは純化したシャシー時代のみならず 時々描かれる。しかしやはり全体的には異形を描き続け 顔のみならず身体に変形や歪み ずれなどを取り入れた作品もある。つまりバルテュスの美醜の扱い方は安易に整った理想的な美を求めるのではなく 不均衡を実体とし そこに可笑し味を持った奇妙さを見い出し 実体の本質と造形的な魅力としたのではないだろうか。

* 「醜の美学」カール・ローゼンクランツ著 鈴木 芳子訳 未知谷。「芸術は醜を浄化して滑稽に転生させ 美の普遍的な法則に服従させる。その結果 醜は喜劇として市民権を取得する。」野口 武彦氏の解説より。5_8_2