*1 なぜ同じ場に居ながら無関係なのか。

描かれた人物が複数の場合 必ずと言って良いほど同じ場所に居ながら 互いに何らの関係も持っていないように描かれている。これは同居の無関係であり すでに10代の初期に描かれた作品に見られる。そしてその後の作品でも使われており 全作品を通した一つの特徴である。しかしこの関係の無さは人間の関係としてであり 構成上では充分に関連性を持っている。つまり具体的な人間関係はないが 構成的には関連性があるのである。この無関係さは様々に読み取る事ができ 例えば現代に照らし合わせて 個人主義や自分主義(ミーイズム)による関係の希薄化を象徴しているとも解釈できる。しかしそのような社会的な現象として捉えるのではなく もっと根源的であるように思える。例えば人は元々個々の存在として 独立した固体であり それゆえに単独で行動できる。しかし他との関係を求める場合には その間には距離が生じており この距離は縮める事は出来ても 無くして一つに合体する事は出来ない。いかなる愛を持ってしても皮膚と言う壁が残る。つまりこの個としての自由性と他との距離を同居の無関係の根源的な理由としたらどうだろう。固の喜びと悲しみ。
しかしこの同居の無関係は10代の頃から描かれていた事を考えると そのような後付けの理屈よりも もっと自然に見受けられた状況や光景なのかもしれない。我々も他人と一つの部屋にいる時は それぞれに距離を保ちながら 自分の居場所を確保しているのではないだろうか。もちろん他と会話したり談笑する場合もあるが。だがやはり固体の喜びと悲しみとした方が バルテュス自身の孤高とつながりより神秘的に見える。

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*2 なぜ身振りと姿勢にこだわるのか。

バルテュスは「姿勢の画家」と呼ばれるほど 身振りや姿勢に強い関心を見せている。これは人体の形から生じる表現力を最大限に引き出そうとしたからだろう。代表的な作品を例に挙げれば「街路」と「コメルス・サン・タンドレ小路」で この2点は陽と陰の関係にあるが それぞれに身振りや姿勢を強調する事で巧みに描き分けている。また「夢見るテレーズ」の姿勢は 人体の取れる姿勢として 一つの完璧な均衡が計られた形であり さらに性的な意味を加える事にも成功している。また「長椅子の上のテレーズ」では性的な点は置き去りにして 完璧な均衡を追求している。これらから いかにバルテュスが人体による姿勢が生み出す表現力を求めたかが分かる。そしてこの原点が10代の頃に描いたリュクサンブ−ル公園の子供達にある事は明らかだ。

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