描いた金槌を渡し 握る事が出来ない金槌に困った顔をする幼い息子を楽しそうに見ていたそうである。また当人のスタニスラスさんもこの錯覚的な遊びに熱中したと述懐している。しかし次男のタデ氏はもっと厳しい思い出を語っている。彼が学校で絵を描き とても褒められたのでパパ(バルテュス)に見せたところ「2度と絵を描いてはいけません。もし描くようだったら この鋏で指を切りますよ。」と言ったそうである。タデ氏は「その時はとても恐かったが 後に絵を描く仕事の辛さゆえに言った事だと理解した。」と言っている。しかしこの厳しさは従軍したときにかかったマラリアの後遺症による発作的な混乱でもあったようだ。
このような悪戯好きな面と厳しい面はどちらも若い頃の事であり 子供達には自然の奥深さや現実の美しさを よく話していたそうである。
ローマのヴィラ・メジチでの館長職は運営責任者であったが かなりのやり手であったそうで 当時を知る職員は「バルテュスはとても魅力的で包容力があり 職員の面倒見もよかった。特にやる気のある職員を大事にした。しかしやる気のない者にはとても厳しかった。」さらに「館長でありながら細部にも精通していて 遠くからでも人を操る力を持っていた。」と述べている。この述懐の最後の言葉は 氏の人としての力の強さと本質に触れている。また職員の賞与が少ない時は 本国に要請するだけでなく 時分の素描を売った代金で補っていたそうである。
この館長時代に日本で節子夫人と出会っているが 当時の彼女の洋装好きを批判し 「何故 日本の伝統である着物を着ないのか。」と問い詰めたそうである。この後にバルテュスと結婚した節子夫人は常に着物で過ごすようになり 現在では日本の伝統美を継承する女性として活躍している。バルテュスの考えを理解し実行する節子夫人もかなり力のある人だと思うが ここでも氏の人を動かす力の強さが見られる。また氏が節子夫人と再婚する時に 先妻のアントワネット夫人は 彼女なら全てを任せられると再婚を認め 節子夫人が子を宿した時には 様々な手助けを惜しまなかったそうである。このように二人の女性が いかに思慮深く賢い人達であったか分かる。そしてこの二人こそ氏に相応しい女性であり 人を見る眼の確かさこそ 氏の人としての程度の高さを示している。また氏の3人の子供達 スタニスラス氏とタデ氏 そして一人娘である春美嬢 彼等は互いに理解しあっており 親に似て優雅で気品があり 知性の深さが眼に宿っている。そして突出した存在感を持っている。これは両親の良き個性の伝承だろう。氏の画家としての生活が安定し始めたのは1950年代以降で 複数の後援者が資金を出し合って彼の生活を支えたおかげである。それまでは決して豊かではなく 有名になってからも作品売買のための画廊との契約は更新されないままであったそうだ。やはり氏は自分の作品をより高く売るなどと言った事には無頓着だったようだ。また長男のスタニスラス氏が旅行に連れ出しても すぐに帰りたがり 自分の一番居たい所に居させてくれと言って 画室に戻りたがったそうである。
パリ時代の若い頃の事はあまり知られていないが* 優雅な男前で洗練された魅力を持ちつつ 短気で怒りっぽく 自己中心的に頑迷で 鼻持ちならないくらい気位が高く 本物のみを認めるような人であったとも伝えられている。この頃の特徴は行動力と社交性があり 手強い論客でもあり その鋭さと生意気さは当時の様々な時代人との交流を可能にし これらの人々の多くは現在に名を残す人達であった。
ここでの締めくくりにフェリーニが最後の発作を起こした時の事であるが 病に倒れた友人のために氏は懸命に祈ったそうである。この祈りはマラテスタ寺院にあるピエロ・デッラ・フランチェスコのフレスコ画に登場する聖シジスモンドに対してであったが 「それは自分がピエロ・デッラ・フランチェスコを熱愛しているからでなく あの時フェリーニの一番近くに居た聖人だったからです。」と言っている。この敬虔な配慮と細部へのこだわりは フェリーニが書いた印象記を通じるものがある。つまりバルテュスは大いなる強固な自我を持ちながらこれを操作できる理性を持った人でありこの知性は冗談や可笑し味も理解していた。

そして男前で誇り高き優雅さはダンディズムであり 画家でなくともやっていけるほどの人であった。しかしその内に秘めた魂は 穢れなき神秘の底から生まれており 現実と無限の世界 または美と醜の世界を思うように行き来できる力を持っていた。それゆえに孤独であるが 何かを深く知り得る者とは そうであるべき事を示している人でもあった。*フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 1920~1993 映画監督 脚本家。映像の魔術師との異名を持ち庶民的で開放的だが人生の悲哀や幻想的で夢幻性を帯びた映像が特徴。猥雑な娼婦達やサーカスの道化師などは特異な材料であった。
*この文章は最初に1977年にニューヨークのピエール・マチス画廊で開催された展覧会の図録に掲載された。
*”Balthus Correspondance Amoureuse avec Antoinette de Watteville 1928-1937″が2001年に刊行されている。 「バルテュスがアントワネットに送った愛の手紙 1928-1937」 

 

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