*自己開放と混乱について 

バルテュスの作品の全てを肯定すると 氏は創造者として「黄金を実らせる樹」になってしまう。これは「私の吐き出すものは全て芸術だ。何故なら私は芸術家であるからだ。」*と言った主張に通じてしまう。これほど傲慢ではないにしても 全てを肯定するとはこういうものだろう。
氏の作品の中にも気になる作品はある。例えば「両腕を上げた裸婦」や「夢 1,2」などで これらはそれまでの形態や構成の厳格な秩序が見られず 秩序は構築されきっていない。シャシーの時代以前は厳格な構成と形態による秩序の構築にこだわっていたのだが シャシーに移り住んでから作風は大きく変化している。 これはそれまでの写実表現を基にした作風から 本格的な具象表現への移行を見せる転機であった。この移行後に先の作品は描かれている。
この変化には理由があったはずで それまでの写実表現では描法上の約束事が多く これは一種の制約とも言えるが これに比べると具象表現はより自由度が高い。この自由性を求めて具象表現を実践するとしたなら 一種の自己開放を行なわねばならない。写実表現を基にした造形感覚や構成感覚を解き放ち 自らの個性や癖などを許容するのである。例えば形態を具象表現化するには崩し 単純化 強調などの技巧があるが このような技巧よりも個人的な癖や均衡感覚が大きな働きをする。そして写実表現とは異なる新たな秩序が必要となる。この秩序をどのように成立させるかは 当時の氏の大きな課題であったろう。この問題に対して氏は真摯に取り組んだであろうが この移行は今までの秩序感の喪失であり 新たな秩序の構築に挑む事である。ここに秩序の混乱とも言える状態が生じたのではなかろうか。このように考えると「両腕を上げた裸婦」は今までの秩序の喪失であり 「夢 1,2」は新たな秩序の構築を目指していると言える。つまりこれらの秩序の混乱は 自己開放と新たな秩序を作り出す過程で生じたものである。さらに平面化された作品やゆるみのある線の構成も 具象表現の新たな秩序の構築の一環であると解釈できる。このような苦慮の結果に到達した新たな秩序の構築は「樹木のある大きな風景 (三角形の畑)」や「シャシー農場の中庭 (樹木のある大きな風景)」などに見る事ができる。
だが秩序の混乱は晩年の作品にも見られる。この例は P343の「静物」や「モンテ・カルヴッェロの風景 2」などである。これらは高齢による肉体的な衰えが原因と思われているが それだけではないはずで もっと根が深いものがあると思われる。つまり開放された氏の造形感覚と構成感覚の根底には 不安定な秩序感が潜んでおり これが晩年やシャシーの時代などに 時々むき出しになっているのではないだろうか。しかし晩年にはこれさえも許容し 一種の秩序の構築への無関心 または厳格さの放棄を起こしているが これは開放のし過ぎとも言えるが 一種の超越的な境地に至ったとも言える。
このように創作の過程さえも露にし 隠さないのは何故だろう。創造に対する正直さだろうか。

*この言葉はクルト・シュヴィッタースの発言。

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