第6章 1-2

第6章 バルテュスが成したも

本質の追求

バルテュスは青年期に書いた手紙の中で「嵐が丘」の挿し絵について次のように書いている。「この作品にはたくさんの事を盛り込みたい。優しさ 子供時代への懐かしさ 夢 愛情 死 怒り そして涙などを これら全ては僕らの心の中に秘められている。卑怯な偽善に固められた人間の皮膚の下にある真実を形にしたい。」この「人間の皮膚の下にある真実を形にしたい。」とは物事の表面下に潜む本質を明かにしたいと言う考えであり これがバルテュスの表現の根底にある。これが具体的に表れている青年期の作品では「ギターのレッスン」や「鏡の中のアリス」「夢見るテレーズ」 そして都市の屋外風景である。これらの裸体などが描かれた作品は挑発的で 人々の皮膚の下にある性への関心をあぶり出している。そこには性的な可逆性と自虐性 露な裸体が示す美の伴わない官能性 構築的な姿勢と性の露呈 そから性の禁忌性への挑戦などを描き出している。これらには若きバルテュス自身にのしかかる青年期の性の重さや暗さに対する反発心や疑念が込められている事は 先に述べた。また都市風景の「街路」と「コメルス・サン・タンドレ小路」では 都市風景の中の人々を陽と陰で描き 陽は奇妙で滑稽にも見える見世物とし 陰は沈鬱な負の美としている。これらは都市に見られる人々の実体を2つの面によって露にしている。これは本質の追求と言うよりも本質の露呈であり 現実の実体を暴くだけでなく 独自な演出が加えられている。この演出は可笑し味と暗さ 挑発と疑念 そして完全に構築的な姿勢と構図 また色彩の効果と視線の誘導などであるが この独自な演出こそ 本質の露呈に加えられている抒情性であり 作品を重層化し複雑化している原因でもある。そしてこの演出という皮膚の下にこそ 氏が込めた本質がある。しかも追求して得た本質を露呈させつつ実は この演出によって秘めてしまう事が氏のやり方であり 氏の本質である。

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不可視なものの具現化

また氏はこうも述べている。「人は非現実を写実し 不可視なものを具現化する事ができる。」 これは一読すると 現実にはありえない世界を具体的に描き出せるとも受け取れるが そうではなく 視覚だけで捉えられる現実に限定しないで その本質に具体性を与える事ができると言う意味である。また非現実とは現実を無視した架空の世界ではなく 計りしれない現実の奥深さと広大さは人知を越えていると言う点で非現実なのである。この考えは先の本質の露呈のさらなる進展であり これによって人間の皮膚の下だけでなく 自然界や普段の生活に潜む本質を捉えていく事になる。この好例は陽光に晒された裸体を描いた「部屋」で ここでは現実にある事を越えた 不可視な世界を巧みに写実し 具現化している。また風景を描いた作品では「ラルシャン」や「ゴッテロン渓谷」「シャンプロヴァンの風景」「樹木のある大きな風景 (三角形の畑)」なども同じく 天と地の向こうに広がる無限性 自然の持つ頑な自我 黄昏れ始める午後の永遠性 謎めく存在などを具現化している。これらは単なる美しき自然の再現ではなく 人知を超えた大いなる存在に対する畏敬の念による認識であり 計りがたい現実の謎めく本質の一端を明らかにする事に成功している。

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第6章 3-4

また青年期から大戦中とその後の時代に多く描かれた肖像画では 人物の外見を通して内実を見つめている。この内実は不可視なもので 皮膚の下に隠されている実体である。これらの肖像画では描かれた人物に敬意を払って その精神性を大切に扱っているが これはバルテュス自身の精神性の反映でもある。
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それから擬人化や可笑し味を持った作品も同じである。食通を猫に例えて擬人化した「地中海の猫」。王のように尊大で威厳のある馬を描いた「スパヒと兵士」。いじけた表情を見せる犬と飼い主を描いた「ポントワ−ズの郡長 (ムシュ・イライレ)」。そして最初の自画像である「猫の王」では自らを道化のように扱っている。これらも非現実を写実した不可視な世界の具現化である。

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より高い次元へ

氏は若くして生涯を代表するの作品を描いてしまっているが その後の変化とさらなる進展によって至った到達点こそ重要である。若い頃の作風だけでも充分に通用するのだが それに満足して同じ地点に留まろうとはしていない。また皮膚の下の真実や不可視なものを次々に見つけていくのではなく 画題を限定しながら それまで行なってきた表現を集積させ より高い次元に到達させようとしている。これこそ氏の創作態度であり これ抜きに氏の作品を語る事は出来ない。
この例は晩年の「モンテ・カルヴッェロの風景」や「青いスカーフを持つ裸婦」などの立ち姿の作品 さらに「鏡猫 1,2」と「鏡猫 3」である。「モンテ・カルヴッェロの風景 」では それまでの風景画で明らかにした不可視な存在を 生の彼方にある黄泉の国のように描き出している。ここには一種の昇華が感じられる。風景画にこのような精神性の高さと深さを与える事は 自らの悟性を表していると言えるだろう。さらに「青いスカーフを持つ裸婦」では それまで様々に工夫された姿勢が この立姿に集約されているように思える。ここには虚飾のない厳然たる構築物のように確固であり 幼さの残る裸体は純然な抽象性を獲得している。そしてこの若い娘の意志は人間性の可能性さえ指し示しているようだ。つまりその立姿と意志は裸体の魅力を越えて 確たる存在として純化しているのである。さらに「鏡猫 3」では それまでのトランプを扱う人々などのような他と関係を持たない独立した一つの世界から 3つの要素(若い娘 鏡 猫 )の関係によって成立する世界を実現している。つまり「トランプをする人々」の世界は二人の関係よりも 他と関連を持たない故に成立する世界であった。しかし「鏡猫 3」は内部に必然的な関係を持たせる事で成立する世界である。これは「赤い魚」でも試みられているが それは一つの中心から生じる周りとの関係であった。「鏡猫 3」は異なるものでありながら 必然的な関係を持っている。この事の方が存在の原理として自然であり 豊かな広がりが生じる。そして必然性を持つ関係とは まさに三位一体の関係であり 宇宙における惑星間の関係を見い出す事もでき。これ故に「ここには宇宙がある。」と言われるのである。バルテュスは関係に必然性を見い出す事で 一つの世界の構築に成功したのである。完全な一つの世界を絵画に表し得る事は 大いなる成功であり 具象絵画の表し得る頂点である。

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第6章  5-6

バルテュスの成したもの

氏が絵画表現に残した功績は 現代において具象表現の魅力を再認識させた事にあるが もっと重要なのは氏の表現の核である「人は非現実を写実し 不可視なものを具現化する事ができる。」または「本質を捉える事で 不可視なもの写実し 具現化する。」を実践して見せた事である。これこそ氏の最も偉大な功績である。これによって人の住む現実世界の計りしれない奥深さに潜む 希有な存在を明らかにしたのである。 これは現実と同じように手応えのある内的現実の狭間に作られた世界の構築でもある。
画家は視覚世界のみに頼る傾向があるが 氏はそのために表面的なものに捕らわれず 皮膚の下を見る。そして現実の卑俗さから距離をおき 幻視や幻想に流されず 美に溺れず 官能の虜にならず それらの魅力を活用しながら 構築した世界を個人的に独立した世界にする。
そしてこの世界の中で描いてきた内容は 娘達の挑発的な性の露呈だけでなく 裸体に秘められた生命の輝き 同居の無関係 都市の人々の陰と陽 醜の道化への転化 肖像画に見られる外見と内実 日常の純粋性風景の中の無限性と永遠性 さらに謎めく存在 また他と関係を断って成立する世界 現世を越えた世界 関係性によって成立する一つの小宇宙などであった。そして絵画表現としては人物の姿態と構成的な画面作り 見応えのある画肌と色彩 柄と模様 そして具象表現の可能性と限界などである。

これらの中で氏の代表的な画題とされる若い娘達は 実に様々に描かれた。挑発的な性 死的な裸体 生命の輝きを示す裸体 構築的な裸体 姿勢を取る娘達など。これらはありきたりな甘味な美の装飾を排し 性的な欲望の対象を越えた官能性を与えながら その希有さを丁重に扱った上で聖なる者とした。そしてその聖なる者としての居所を創り出し そこに彼女等を納めたのである。
屋外風景で描かれた自然も 当然外観に捕われた通俗的な自然美の再現ではなく その内実に迫り 不可視な無限性や永遠性を視覚化する事に成功している。
また何気ない日常の暮らしを描いた作品では 日常をありふれたつまらないものとして捉えるのではなく そこに日々の中の純粋性を見い出している。しかし現実については その実体を不均衡なものとして捉えているが だからと言って拒否するのではなく 不均衡さからくる醜さを道化に転化する事で 可笑し味や謎めく存在として生かしている。

氏の美と官能性については 鑑賞者の直接的な欲望に答えるのではなく 間接的で微妙な あくまでも知的さが優先されている。この点は現代の欲望の満たし方の直接性と安易さへの批判と受け止める事もできる。また美という曖昧な価値観に対しても 通俗的な様相を与える事はなく 形の均衡が美なのではなく 内実と不均衡の関係にその答えを見い出している。
具象表現の可能性と限界の追求については 形と色彩 そして構成による厳密な画面を構築しながら さらに平面化やゆるみのある構成まで試みており これは具象表現が抽象表現に至る限界まで突き詰められた結果であるだろう。しかしこれらは独自であるが 氏の表現すべきものは別にあると解釈されるかもしれないし 自らの方向性を絞らなかった多才さが仇となったと言われてしまうかもしれない。しかしこれも氏の幅の在り方であり これを受け入れなければ 氏の全貌は明らかにならない。
そして氏の無形の様式の拠り所について述べれば 今という現在性に捕われる事ない時間認識を持っており これによって過去と言う累積された時間を自由に行き来し その拠り所とした。これは過去を継承すべきものとして復活させ この重厚さは一つの様式になっている。またこのような過去を引き継ぐ重圧的な時間認識は 新規さばかりに気を取られる現代の狭隘さと軽さの限界を指摘する事になっている。

以上の氏が構築した世界は356点余りの本制作と数々の素描で形作られているが それらの一つ一つは様々な様相を見せながら 大きく重い岩や小さく堅い石となって積み重なっており それぞれの内容がより深ければ深いほど その積み重なる山は高さを増し 氏がより遥か彼方を見通すほどに その頂きは遠のいてそびえ立つ。

第6章  6

バルテュスの芸術性と魅力 そして精神性

芸術性

「芸術とは 精神を高揚させ 感情を軽くし 思考を明確にするものである。」と言ったのはアンリ・マチスであった。これが芸術の成し得る事だが これをバルテュスの作品世界に当てはめれば「精神を高揚させ 感情を豊かにし 思考を深化させるもの」となるだろう。精神を高揚させるものとしては 他の芸術作品と同じく 氏の作品も見る者の眼を喜ばせつつ その精神を刺激し 高ぶらせる。感情についてはマチスは軽くするものと言っているが これは感情を豊かにするでは重さに通ずるとして避けたのであろう。しかし氏の場合は重さを含んだ豊かさであり 豊潤であり 熟成である。さらにマチスは思考を明確にするものとしたが 氏の場合は本質を追求しながら秘めると言う点で 見る者を深みへと誘うのであるから 深化と言える。
20世紀の絵画の歴史に名を残す巨匠達は 様々な様式の創造を果たしているが 様式を成立させた後は その範囲内で表現は繰り返されている。しかし氏は作風が繰り返される事を避けるように 様式を固定化しなかった。これは常に様式の創造を行なう事でもあり 制作者の負担は大きい。つまり様式の非固定化によって 自己模倣を避けたと言える。様式の創造は大いなる創造の樹を成す事に等しいが そこに成る実は同じであり 様式の非固定化によって出来る実はそれぞれに異なり 均一や量産化は無理で 同じ成果は繰り返される事はない。それゆえに氏の作品はどのようなものであろうと貴重なのである。 

魅力

そして氏の表現世界の魅力には 少女 性 同居の無関係 醜の道化 演劇性 憂鬱 無限と永遠性 日常の純粋さ 陽光と裸体の輝き 緊張と弛緩 そして秘められたものと謎 関係性による小宇宙 また構成 色彩 画肌などがある。これらは人の皮膚の下などに隠れる本質を 追求する事によって得たものを 明らかにするというよりも 秘める事によって聖域化されている。そしてそこから立ち昇る濃密な気配が放つ香りこそ 氏の作品世界の魅力でもあり これは常に熟成しているが 時に爛熟してもいる。この放香は一様ではなく 濃淡の違いも味わい深い。
また放香だけでなく 耳を傾ければ氏の絵画からは しめやかな囁き声が聞こえてくるが これは孤高で暗い寡黙な深淵から発せられている。そしてその声のする奥に眼をやれば ある光が仄めいているのが見えるが これは真善美の放つ微かなきらめきである。この真善美は表現の根底にあるべきもの または表現が本来目指すべきであり 優れた作品には必ず内包されているものである。この仄めく微かな光こそ 人を強く引き付け 深く魅了する力の基である。
そして氏の作品は表現者とそれを受け取る鑑賞者との関係において 個人と個人 または一対一の関係が求められる。これはまさに秘密の契約を取り交わすような関係であり それ以外ではあの放香としめやかな囁き声は遠のいて行くかのようである。この一対一の秘密めいた伝達の仕方こそ 個人の内奥に深く届く希有な表現の在り方であり これこそが氏の作品に根強い愛好者がいる理由の一つだろう。

第6章   7-8

精神性

氏の絵画作品には変化と固執が見られるが これらを通した中に変わらぬものがある。これは不変性であり作品の様式や画題を越えて感じる事が出来る氏の精神性である。これも不可視なものであるが この不可視な精神性の有り様を明らかにした所に 氏の最大の特徴があり 功績がある。このような本質と必然の高さと深さを充分に理解した精神性の存在こそ 希有である。
しかし氏の精神性には ある偏りと暗さが見られる。これは基本的な審美眼だけでは掴みきれないものを含んでいるだけでなく 執拗に繰り返されて描かれる同一の画題 同じ場にいながら無関係な関係性 描かれた人々の表情の暗さ (描き直された人物画や「カラスのいる大きな構成」などは別である)などである。この氏の作品の特徴でもあるものは 氏の単なる好みではなく辿った人生や民族的な特性 (氏はラテン系ではなくゲルマン系) とも言えるが 氏が見通す本質が有する暗さの反映である。物事の本質の多くは明るいとは言えない。シャシー時代の陽光の明るさや日常の純粋性を忘れてはならないが ここでも自らは陽光を浴びていない。やはり氏の本質は 開放よりも閉鎖にあり 自らをある特定の領域に閉じこめ ここで微妙なものは発酵させ そっと掬いあげる。これはまるで中世の錬金術師のような超論理的な手法が 用いられているように見えなくもない。しかしこの言い方は確かに氏に似合うが やはり創造の飛躍であり それは知性と知力 そして精神性によって支えられている。そしてこの偏りと暗さを持つ気高い精神性こそ 陰を知らない正統派の単純さでは掬いきれない 心情と神経の襞の微妙な明暗を表しうるのである。
つまり氏の大いなる精神性の奥底には大いなる良きもの 不可視な本質と真善美が秘められており これがいかなる偏りと暗さであろうと ある調和を得る力となっているのである。

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同じ金魚を描いてもこうも異なる。マチスの「金魚」は感情を軽くする快さがある。つまり暮らしの中の何気ない情景に日常の純粋性を表している。これはシャシー時代のバルテュスと同じである。しかしバルテュスの「赤い魚」は小さき生き物の可憐さや純粋性よりも 命の深遠なる神秘さえ伺わせている。この違いを表現者の精神性の違いではあるまいか。

最後に

これまでの氏の作品に対する印象は 幼さの残る娘達による淫靡を伴う官能を描いた画家と言った面が強調されていた。そして気を許せば たちまち落とし穴に落ち入りそうな油断のならなさによる緊張感などへの評価の高さはあったにしても。全体像はあくまでも曖昧であったのでないか。また陰の世界を描いたような作品では まことしやかな秘密めかしとも受け取られかねなかった。さらに絵画表現の変革の最中にあった20世紀絵画において 時代のあだ花的な存在として見られていた面もある。しかしこれらは氏の画業の全てから見て 果して的を得ていたのであろうか? それとも一部分にしか過ぎないのだろうか? やはり創作者はその全貌を通して評価すべきであり 作品ごとの善し悪しや 一つの基準のみで評価する事は狭量なはずだ。
氏は若くしては挑発的な魅力によって見る者を惑わしもしたが これはその正体を暴くためではなく 秘められたものの重要性を明かにするためである。また氏は過去とのつながりを断って 自らがつけた足跡と付いてくる影を忘れた気ままさを謳歌する人ではなく 時間の経過の中で沈澱するように秘められたものを 聖なるものとして掬い上げた。これらはある場所に集められ 一つの世界が創られた。この世界に氏は自ら囚われる。これは聖域の構築のためであり 守護するためである。全ての秘め事には隠された理由があるが その理由を知る者こそバルテュスである。そして氏の正体こそ秘められた者であり 秘められた守護者なのである。氏の精神の気高さと重々しくあろうとする態度は この重責を果たす者に相応しいはずだ。

「鏡猫 3」から最晩年に渡る作品を「無惨・・・」と言う人がいる。これは「モンテ・カルヴッェロの風景 2」や「マンドリンと若い娘 (期待)」なども含まれている。これらは確かに形態と構成の秩序を失っている。この理由は老いによる混乱かもしれないが これらの作品のほとんどは大画面であり 氏はそれを選んでいるのだ。老体にむち打ちながら制作を続ける姿は 自らの絵画世界との同化を果たそうとしているように 私には思える。まるで苦行僧のように。その後姿からは 人生の全てをかけた画業の質量を創り出すための労苦を思い起こさせ 自分の作品を愛好してくれる人達の期待や各時代の流行に迎合する事なく 自らの創作を貫き通してきた者の意志をにじませている。

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第6章  9-10

本書はもう少しで終る。これまでに様々な作品があったが その中で思い出される懐かしき作品がある。街はずれに立つ白い馬に乗った曲芸師 幼き王女の毅然とした立ち姿など。これらは氏の代表作ではないし 絵画の特徴を語るに良く使われる作品でもないので 表立つ事は少ない。しかしこのような作品に魅了される者も多いはずだ。また当然ながら 謎めく物語性に想いを託す楽しみや情感を含む陰影の深い味わいなどが持つ 人を魅了する力こそ氏の作品の魅力であり 決して色褪せる事はないだろう。何故なら氏の作品は愛好家にとってすでに聖域化されているからである。
氏は芸術家と呼ばれる事を拒んでいたが これはその言葉の大仰な意味合いを嫌ったからで 制作者が全て創造する者ではない事からすれば バルテュスは確かに具象絵画の画家であり 時代を遥かに越えた魅力ある絵画を創り出した。そしてその創造は高く聳える山を成したに等しいのである。ゆえにバルテュスは偉大な芸術家であり 個人的な精神性の高さと深さを示し得た希有な画家であったと言える。またこの巨大な山には 創作者しか知り得ない重要な内容も納められているはずだが これらも不可視なものであるのだろう。これらに本書は少しでも届きたいと願ったが 果たして達したかどうか 少なくとも幾つかは明らかになったはずである。その事に満足して筆を置く事にしよう。

2001年の 2月 17日 これまでも繰り返していた入院であったが この日バルテュスは入院先から自宅に戻りたがった。夕方の5時に屋敷に着き 夜の8時にアトリエに行きたいと言ってシーツに包まれて運ばれる。暫くして周りの人に席をはずしてほしいと言い 本人と節子夫人と娘の春美嬢のみがそこに残った。その時に 最後の言葉が発せられた。「コンティヌエ コンティヌエ・・・(続けて 続けて・・)」 それは弱々しくもはっきりした声で 広くがらんとしたアトリエに響いた。そしてその後 母屋に戻って息を引き取る。これは節子夫人の述懐している最後のバルテュスの様子である。
この最後の言葉の意味を私はこう解釈する。制作を通して真善美を知る頂きに立った氏は 創作の真の目的と実践の差を埋める事がいかに難しいか 思い知らされていたのではないだろうか。これは一種の絵画表現の限界を知る事になるかもしれない。しかしだからと言って止める事は出来ない執着がある。なぜならバルテュスは絵画を信じているからだ。これは信仰である。この信仰を成就させるには続けるしかないのだろう。
節子夫人は先のようにバルテュスの最後の様子を語ったが こうも付け加えている。「バルテュスは まるで夕日が沈むように 亡くなりました。」バルテュスの最後を語るに これ以上の表現はないであろう。

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