第五章

第5章 まとめ

この章はバルテュスの作品についてのまとめである。第3章で紹介した作品の主な特徴は 厳選された画題と多様に解釈できる内容 そして表現様式の独自性と変化である。画題は人物画を中心に風景画 静物画などがあるが そのような領域分けを越えた自由性がある。内容は主に複雑で謎めいているが その精神性の高さは常に気高い。表現様式は独学による写実表現から具象表現へ変化し 自らの作り出した様式を模倣する事なく 一作ごとに全てを費やすような作風は見応えがある。また作風が変わっても作品から立ち昇る感性の放香は変わる事がない。

以上が主な特徴だが もう少し詳しく具体的な点を 疑問として挙げると以下のようになる。これらの疑問点はつまりバルテュスの作品の特徴でもあり 謎でもある。

・ 1 なぜ同じ場に居ながら無関係なのか。
・ 2 なぜ身振りと姿勢にこだわるのか。
・ 3 なぜ人物達は石像化したように動きがないのか。
・ 4 なぜ挑発的な裸体を描いたのか。
・ 5 なぜ若い娘達を描くのか。
・ 6 よく言われる官能性とは。
・ 7 なぜ顔や身体を変形させるのか。
・ 8 なぜ猫を描くのか。
・ 9 なぜ鏡を描くのか。
・ 10 なぜトランプを描くのか。
・ 11 なぜ作風や技法が変わるのか。
・ 12 なぜ時に簡素に 時に複雑に描くのか。
・ 13 なぜ何時の時代か分からないように描いてあるのか。
・ 14 なぜ同じ画題を繰り返すのか。
・ 15 なぜ過去の作品を描き直すのか。
・ 16 なぜ現代の絵画を否定するのか。
・ など

これらの疑問は一点づつの作品解説とは 別に考えてみる必要がある。その答えは一つではないだろうが氏の核心に近づくために欠かせない登竜門である。しかし深読みのし過ぎは禁物である。作品は作者の考えや表現技術以上に 何かを成立させてしまう事があるし 特に氏の作品は作者の意図がどこまでおよんでいるのか計り知れない所があるからなおさらである。しかし深読みし過ぎたところで氏は否定するどころか その的外れと拡大解釈を楽しむに違いない。

第五章    P2-P3

*1 なぜ同じ場に居ながら無関係なのか。

描かれた人物が複数の場合 必ずと言って良いほど同じ場所に居ながら 互いに何らの関係も持っていないように描かれている。これは同居の無関係であり すでに10代の初期に描かれた作品に見られる。そしてその後の作品でも使われており 全作品を通した一つの特徴である。しかしこの関係の無さは人間の関係としてであり 構成上では充分に関連性を持っている。つまり具体的な人間関係はないが 構成的には関連性があるのである。この無関係さは様々に読み取る事ができ 例えば現代に照らし合わせて 個人主義や自分主義(ミーイズム)による関係の希薄化を象徴しているとも解釈できる。しかしそのような社会的な現象として捉えるのではなく もっと根源的であるように思える。例えば人は元々個々の存在として 独立した固体であり それゆえに単独で行動できる。しかし他との関係を求める場合には その間には距離が生じており この距離は縮める事は出来ても 無くして一つに合体する事は出来ない。いかなる愛を持ってしても皮膚と言う壁が残る。つまりこの個としての自由性と他との距離を同居の無関係の根源的な理由としたらどうだろう。固の喜びと悲しみ。
しかしこの同居の無関係は10代の頃から描かれていた事を考えると そのような後付けの理屈よりも もっと自然に見受けられた状況や光景なのかもしれない。我々も他人と一つの部屋にいる時は それぞれに距離を保ちながら 自分の居場所を確保しているのではないだろうか。もちろん他と会話したり談笑する場合もあるが。だがやはり固体の喜びと悲しみとした方が バルテュス自身の孤高とつながりより神秘的に見える。

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*2 なぜ身振りと姿勢にこだわるのか。

バルテュスは「姿勢の画家」と呼ばれるほど 身振りや姿勢に強い関心を見せている。これは人体の形から生じる表現力を最大限に引き出そうとしたからだろう。代表的な作品を例に挙げれば「街路」と「コメルス・サン・タンドレ小路」で この2点は陽と陰の関係にあるが それぞれに身振りや姿勢を強調する事で巧みに描き分けている。また「夢見るテレーズ」の姿勢は 人体の取れる姿勢として 一つの完璧な均衡が計られた形であり さらに性的な意味を加える事にも成功している。また「長椅子の上のテレーズ」では性的な点は置き去りにして 完璧な均衡を追求している。これらから いかにバルテュスが人体による姿勢が生み出す表現力を求めたかが分かる。そしてこの原点が10代の頃に描いたリュクサンブ−ル公園の子供達にある事は明らかだ。

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第五章  P4-P5

姿勢の再現。

描かれた姿勢を実際の人体を使って再現して見ると これらの姿勢がいかに熟考されているかが良く分る。その姿勢はごく自然に見えるが 実はかなり微妙で凝っている。これは高度な均衡の上に成り立っいるからで その造形感覚と構築力は見事と言える。そして写実表現であった時期の作品でも 実際のに対して 必ず微妙な調整が行なわれている。また当然だが具象表現に移行した後では もっと大胆な形が行なわれている。

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*3 なぜ人物達は石像化したように動きがないのか

身振りと姿勢については先に述べたが それは演劇的であると同時に動きを止め*石像化しているようだとも言われている。ここで言う動きとは 主に写実表現が獲得していた動勢感の事であるだろうが これらと見比べれば 確かに動勢感はない。しかし技法上で形の明確さを優先すれば 動勢感を生み出す事は難しくなる事も事実である。つまりバルテュスにとっては動勢感よりも 身振りや姿勢の特異性の方が重要であり 動きよりも演劇的な効果を重要視していたからだろう。こう考えるとバルテュス自身は動勢感の無さを 新鮮で独自性があると評価された事を思いがけない解釈と受け取ったかも知れない。 

* アルベール・カミュ著「反抗的人間」の中の「忍耐強い泳ぎ手」より。
「・・・・・一種の魔法の力で 永遠にではなく五分の一秒間 過ぎてしまえばまた動き出すようなほんの束の間だけ石と化した人物を眺めているような気がするほどである。」
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第五章  P6-P7

*4 なぜ挑発的な裸体を描いたのか。

青年期の幾点かの裸体を描いた作品は 挑発的な性の露呈と言えるが これは冷静な考えによって捉えられた性である。その作品には「鏡の中のアリス」「ギターのレッスン」「夢見るテレーズ」などだが これらには冷徹さと共に性への不信感が隠れているように思える。何故ならこれらの裸体には一般的な女性美といった魅力を纏わせていないからである。そしてこれらが描かれた時期は 若い男なら誰もが避けて通れない性の問題があるはずだ。この問題は本能から生じる異性への欲求であるが 肉体がからむゆえに抗しがたい力で重く暗くのしかかってくる。氏自身もこの問題と無縁ではなかったはずである。この頃の挑発的な作品は この抗しがたく悩ましい性の問題に対する 反発心や不信感であり さらにその過激さは抗しがたい力に比例しているように思われる。だがこのような生身の問題を 作品に見られるような形で表す事は誰にでもできる技ではないだろう。これらには性の問題に振り回されて 未消化なものを残すような不様さはまったく見られない。これは冷静さと強靱な意志によって 問題と距離を取るだけの力があったからこそ成し得たはずである。これは20代の若者にしては 恐ろしいほどの力ではないだろうか。またこの時期の作品には独特な緊張感と完成度があるが それは性の問題だけではなく 社会全体が戦争に向かう不穏な時代でもあった事も無視できない。またそのような時代の中で 自らを画家として成り立たせるための極度な真剣さが反映しているのではないだろうか。しかしこのような作風は長く続く事はなく その後に描かれる女性や娘達は次第に昇華され 絵画表現の目的を追求するための 重要な一つの存在として扱われて行く事になる。
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*5 なぜ若い娘達を描くのか。

描かれた人物の中で最も多く描いたのは 少女と呼ばれる幼さを残した若い娘達である。しかしこれらは作品によってバルテュスの印象を2つに分けている。一つは青年期に描いた挑発的で性的な作品による 不謹慎で危うい異端の画家という肩書きである。もう一つは幼き娘達を穢れのない聖なる者とした 儚くかけがえのない美を描く画家という評価である。この相反する2つの世界こそバルテュスの全体像であり 挑発的な性を描いたのは青年期であり その後は聖なる者として純化していくのだが バルテュスの描いた娘達には それだけで納まらないものがあるようだ。
彼女達とは一体何者なのだろうか。彼女達は子供と大人の中間にある思春期の娘達であり この時期は大人の世界の俗と欲を知らない無垢な状態にある。そして性的に未成熟であるゆえに 性の欲求に惑わされない処女としての純粋さがあるとされている。また彼女等は思春期に見られる 特有な生命の輝きを放つ者達でもある。しかし身体的には未成熟ながら性的な自覚を持っている場合もあり このような場合は早熟な官能性を発揮し 異性を惑わす魅力を持つ。また彼女等はかよわき肉体しか持たないので 額に汗した働く肉体労働者と最も遠い存在であり 完全な非生産者でもある。
このような彼女等を青年期の氏は 禁断の果実としての魅力を利用し その後は天使のような聖なる者へと昇華させた。つまり氏は彼女等の容貌や肉体ではなく 精神的に啓示を与える存在として精神的に情愛し 性に目覚める前の少年が幼き妹達に抱く 守護すべき無垢な存在への奉仕者となる。しかし彼女等は無垢さと啓示を与える者であるゆえに 浮き世離れした存在であり ある怪しさを伴っている。これこそが彼女等の本質であり 氏の注目した点であるはずだ。彼女等は美と聖 そして怪しさを持った超越的な存在だからこそ あのように描き続けられても その役割を充分に果たせのである。また氏が亡くなった現在でも 少女達の存在は好奇な眼の対象であり 様々な物語を生み続けている。

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第五章  P8-P9

* 6 よく言われる官能性とは。

娘達の裸体は多く描かれているが よく言われる官能とは一体何を指して言われているのだろう。バルテュスは官能性についてクールベの「眠り」を例に挙げ「私には二人の裸体よりも 左下の青いガラス瓶を官能的に見える。」と述べている。これは正しい見解である。「眠り」の二人のからみ合う裸体はもちろん官能的であるが 私達はもっと別な官能にも眼を向けねばならない。バルテュスの作品で官能的と言われている例をあげると 青年期の「若い娘と猫」などを挙げる事ができる。これは幼き者でありながら さりげない性の露呈で見る者を惑わしているが 官能そのものを描いているとは思えない。「美しき日々」はどうだろう。この自らの美しさに見入る娘からは 自己愛とその美の儚さを見て取る事ができる。しかしここではクールベの「眠り」のような肉体的で直接的な官能ではなく もっと心理的な官能性が扱われていると言える。だが「美しき日々」の着衣の乱れと そこから伸び出た手足は 肉体的な官能性と見る事ができるし 直接的な要素を加える事で具体的な魅力を与えている。この間接的で精神的だが 直接的な要素も忘れない所が巧妙さであり 理想に流されないバルテュスの現実性であろう。また別な官能性もある。シャシー時代に描かれた「夢 2」は眠りの中に訪れる甘味な幸福感を描いているが これは完全に肉体的な官能性を排して心情的な官能性を描いていると言えるのではないだろうか。このようにバルテュスの官能性は 直接的であるよりも間接的であり 心理や心情に関する官能性にこそ強い関心を持って描かれていたのである。
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*7 なぜ顔や身体を変形させるのか。

描かれた人物達はその顔立ちや身体に大きな特徴がある。それは「街路」に見られるような異形を描く事である。ここには丸顔や三角顔が見られ 老婆のような幼女や頭頂部が平らで額が狭く 目鼻が T 字型の顔などが描かれている。これらはバルテュスが整っている形よりも変形した形への関心を持っていた事を示している。これらの手法は強調や単純化による異形化であるが 現実に見られる様々な人の顔や形は整っているよりも不均衡の方が多い。この事は冷静な観察眼を持ってすれば明らかであり バルテュスも現実の実体を不均衡であると見なしていただろう。そしてこの不均衡さとは一種の醜さでもあるが バルテュスの行なった異形化は不均衡さ つまり*醜さを喜劇性を帯びた道化に転化する事で 可笑し味と奇妙な魅力を生じさせている。この着眼と技巧は鋭い観察と高度な技によって 成し得ている事は言うまでもないだろう。
しかしバルテュスはこのような異形ばかりを描いているのではなく 素直にあどけない娘達も描いいるが これらは純化したシャシー時代のみならず 時々描かれる。しかしやはり全体的には異形を描き続け 顔のみならず身体に変形や歪み ずれなどを取り入れた作品もある。つまりバルテュスの美醜の扱い方は安易に整った理想的な美を求めるのではなく 不均衡を実体とし そこに可笑し味を持った奇妙さを見い出し 実体の本質と造形的な魅力としたのではないだろうか。

* 「醜の美学」カール・ローゼンクランツ著 鈴木 芳子訳 未知谷。「芸術は醜を浄化して滑稽に転生させ 美の普遍的な法則に服従させる。その結果 醜は喜劇として市民権を取得する。」野口 武彦氏の解説より。5_8_2

第五章   P10-P11

*何故猫を描くのか。

猫はバルテュスの作品に欠かせない登場者であるが 描かれた猫は習作も含めて 28点である。幼年期の「ミツ」が 1点 青年期に 1点 大戦中と大戦後の時代に 12点 シャシーの時代に 2点 ローマの時代も 1点 ロシニエール時代では 8点である。猫の果たした役割はかなり重要で 他の動物ではこのような微妙な役割を果たせなかったろう。
猫は淑やかで気高く 利発で悪戯っぽく 人に良くなつくがその気高さを失う事がない。その大きな眼は曇りのない透明な輝きを放ち しなやかな身体と毛並みは魅惑的である。そしてどこか謎めいている。これは彼等が人間世界に密着して生きていながら 時に人間に対して無関心とも思える不遜さを見せるからだろう。また人間世界と動物世界を行き来でき 夜の闇にも詳しい。それゆえに人にとって未知の異界にも通じていると思われるからでもある。
バルテュスの描いた猫は様々な役割を持たされている。幼年期の「ミツ」に登場する猫は 愛するものを失った哀惜の気持ちの対象として描かれ 青年期の自画像である「猫の王」では王として猫を味方につけ その後の「夢見るテレーズ」では性的なものを強調する役目を負わせている。また P174の「金魚」では人のように笑ってはいるが 野生的な捕食者の一面も見せている。これらの中で やはり特筆すべきは P221の「部屋」の猫で ここでは娘の身に起こった出来事の目撃者であった。さらに晩年の「鴉のいる大きな構成」では猫と言うよりも謎めいた不可解な存在であり 「鏡猫 3」では娘と鏡と共に3つの関係によって成立する世界の一つを担うまでになる。また遺作である「マンドリンと若い娘」では同居の無関係でありながら さらに同居の無関心をも意味しているようだ。また猫は女性が異性の侵入を拒む 秘められた私室へも自由に出入りできるが この時に猫は同性となりながら 異性の役割も持ちうる。つまり彼等は人の性を越えた第三者でもある。そしてそのような場で行なわれる事を見る者であり しかも密告しない沈黙の目撃者なのである。また冷静な眼差しと淑やかな不遜さは文学的であり 絵に描かれてさまになる存在でもある。つまり猫は少女に次ぐ 二番目の美と怪しさの両面を持った者である。このような役割を果たす者は他には考えられず 猫を用いる事はバルテュスにとって大いなる発見であったはずだ。

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第五章 P 12-P13

*9 なぜ鏡を描くのか。

鏡も重要な画題であり これも大いなる発見であったはずだ。鏡は猫と同様に人々の身近にあり 現実を写し出す不思議な物の一つである。古くは神器の一つとされ 計り知れない現実の中で実体を持ったものしか写し出さないために 虚実を見極める道具として尊重された。またギリシャ神話では ナルキッソスが自らの姿を映しす水面も鏡であり 自己愛の象徴とされもいる。しかし鏡の写し出す世界は 左右反転したかりそめの現実でしかないが その写し出す力は正直過ぎるほど正確であり これは写実表現を追求する絵画表現からすれば現実を捉える上での師であり 目指す一つの頂点でもある。このように鏡も猫同様に多様で 不可思議な要素を持つ物である。バルテュスの鏡は常に若い娘と共にあり 彼女達に欠かせない付帯物として描かれている。これらの鏡は彼女達の姿を映す美の証人である。そしてそれゆえに美の共犯者であり 美の象徴ある。しかし彼女等を虚飾へと誘う道具でもある。このように鏡は少女と猫に次ぐ 第3番目の美に関係した物でありながら 不可思議な面を持つ怪しい物である。

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* 10 なぜトランプを描くのか。

トランプを題材にした作品には 一人占いと二人の勝負がある。このように何かをしている人物を描いた作品は 他に剣玉をする人 空中ゴマを操る娘 読書をする娘などがある。これらは一つの世界が成立している点で共通している。この中でトランプを扱う人達は やはり最も独自な画題ではないだろうか。一人占いは知り得ない事を超越的に知ろうとし 集中し没頭する。これによって他と隔離された一つの世界が成立する。またトランプの勝負では 駆け引きと勝負の行方による独特の緊張感を伴いながら 同じように没頭する事で一つの世界に入り 世界を成立させる。この世界は独自な空間であり 小宇宙とも言えるだろう。そしてこの世界は他と関係を持たずに成立している点で 同居の無関係に属しており この関係を持たない者達と同じように 関係性から独立した世界であると考えられる。つまり同居の無関係では 個々の人が他と関係を持たずにいるが このトランプを扱う人や人達は一つの世界を作り出す事で他と関係を持たないのである。しかしなぜ無関係性を画題に取り上げるのか。それは人々の実体を不均衡と捉えたように関係性よりも無関係性に実体を見たからかもしれない。そして関係性よりも独立した世界の成立に関心を持っていたからだろう。とするならこれらの作品は晩年の「鏡猫 3」の関係性によって成立する世界に通じる画題と言える。

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第五章   P14-P15

*11 なぜ作風や技法が変わるのか。

1900年前後から 1950年代までの絵画表現の変革は それまでの写実表現に具象表現と抽象表現を加え 絵画は 3つの表現描法を得た事になる。このような表現の創造の時代にあって バルテュスの表現描法も変化している。青年期の写実表現から それ以後は徐々に具象表現に移行している。(もっと正確に言えば青年期でも写実表現ばかりではなく具象表現も平行して用いられていたのだが。)

この具象表現への移行は他の流派の影響を受けたのではなく 絵画表現の可能性を追求していった必然性から生じたと考えられる。つまり写実表現では現実性を優先するために 様々な条件に制約される。形 質感 立体感 空間性 光と影 これらは正確な再現性を求められるし 色彩も物の持つ表面色などに限られる。具象表現ならばこのような限定から開放され 表現内容を優先させる事ができるのである。これは印象派が誕生する理由でもあるし その後のフォービズムなども同じ考え方である。
変化の過程を説明すると 最初に物の持つ質感が省略され 次に形が単純化していく。立体感や空間性は描き続けられるが シャシー時代の中頃では それらを省略した平面化する作品も試みている。またゆるい線と不定形による構成も試みており これらは具象表現の可能性と限界を探っているようだ。空間性を描き出す遠近法も具象表現になるほど簡略化されているが 基本的には有角透視図法を用い続け 中には平行透視図法による空間表現を取り入れた作品もある。また光と影は立体感を描き出すためだけでなく 演劇的な効果や陽光自体の輝きを描くために用いられているが 最終的には明確な光源を必要としなくなる。

もし青年期の写実的な様式を続けていったとしても 充分に優れた画家として名を残したであろうが それにこだわらず 新たな展開を押し進めていった事で成し得た成果は それ以後の作品を見れば明らかである。
また表現者を2種類に大別すると 一方はある独自な表現様式を獲得する事を目指し これが成立するとその様式で制作し続ける。もう一方は表現様式にこだわらず 様式を固定化しない。この違いは様式を重視するか それとも内容を重視するかの違いでもあるが えてして様式を重視する方は 自分の作り出した様式を模倣し続ける事になりかねない。バルテュスは後者であり ゆえにかなりの幅がある作風であった。
つまりこの変化は自らの絵画様式を固定し模倣するのではなく 様々な表現を試みる事で具象表現の可能性と限界を追求して行ったのであり これは絵画の可能性の創設であったと言える。

1990年代初頭に行なわれたセミール・ゼキ氏との*対談。
ゼキ氏「モンドリアンは数学や哲学の思考に完全にのめり込んでいますが 貴方自身は絵画の限界を意識的に探究なさっていますか?」
バルテュス「いいえ 私は意識的には何もしていません。無意識的なのです。私は自分が何者かに導かれているような感じがするのです。それが何か分からないのですが。」

ここではバルテュスは表現の変化は意図して行なったのではなく 自然体として絵画に向き合っていくうちに展開されたと言っている。また何者かに導かれていると言う発言は興味深く 絵画世界の可能性とそれに答えようとする者の間に生じる希有な感覚で 宗教的な体験に近い事を述べようとしているようだ。
* 「芸術と脳科学の対話」バルテュスとセミール・ゼキ著 青土社。

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第五章  P16-P17

* 12 なぜ時に簡素で 時に複雑に描くのか。

これは先の様式を固定しない作風によるが 青年期に描いた室内にいる人物などは 常に簡素化された室内や家具にされている。そしてシャシーの時代からは 複雑で入り組んだ構成と色彩を与える作品が目立つようになり その後はこれらを交互に用いるようになる。青年期のバルテュスは決して裕福ではなく パリの画室には余計な物などなかっただろう。しかしこの頃の簡素さは装飾に使える物を用意する事よりも 限られた条件の中で出来る事を工夫するといった制作姿勢から生じているように思える。これらの作品は 人物の姿勢と僅かな家具による巧みな構成が見られ その厳格さと工夫は一つの見所でもあり この簡素さは必要最低限で工夫をするという潔さから生まれているのではないか。だがその後には相反する複雑で重厚な作風を見せるが これはやはり新たな構成に挑もうとする制作意欲の現れだろう。さらにその後に簡素さと複雑さを交互に取り扱うのは構成の幅を極めた結果で 表現する内容によって使い分けていたからだと思われる。これらの簡素さの潔さは見る者の精神を高揚させ 複雑さによる重厚さは感情の重さと思考の奥深さを表している。

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* 13 なぜ何時の時代か分からないように描いてあるのか。

写実表現や具象表現などは具体的なものを描いているので 描きようによってはその背景に流行や時代を読み取る事ができる。絵画には一過性の流行や一時期の時代を表す事を目的として描かれているものもあるし またそれらを遠ざけようとする傾向もある。バルテュスは後者で限定された流行や時代を遠ざけようとするが それは普遍的なものを求めるからであり ここにこそ表現するべき本質が含まれ これを知の集積として積み重ねられていくべきであると考えているからである。
ゆえに描かれた人物の衣装や髪形など 流行や時代を表しやすいものは扱われていない。しかも中には描かれた当時を表すと言うよりも 過去の時代を示そうとする作品がある。また現在と言う時間よりも 永遠性や彼岸と言った超越的な時間や世界を求め表している作品もある。またバルテュスは「私は中世の時代の人間です。」と言っているが これは懐古趣味ではなく 遠い過去とのつながりを強調しようとする意図である。これらには一つの時間に対する考えが根底にある。それは現在とは 今と言う短い時間で捉えるべきではなく 時の累積の表面に過ぎず 実感すべきは累積した時間の質量であると考えているのではないだろうか。つまりそう考えれば 過去にも自由に行き来でき 知の集積を顧みる事ができるのである。それゆえに過去の衣装を着た人物や永遠性を表す作品が描かれているのではないか。そしてその考えからすれば「歴史を知り 過去の優れた創造物と向き合い 引き継ぐべきものを受け取る事は重要であり そのためには何よりも時間の累積の質量を実感せねばならない。」となる。これこそバルテュスの作品を見る事で感じられるはずである。

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第五章  P18-P19

*14 なぜ同じ画題を繰り返すのか。

バルテュスは同じ主題を繰り返し描いているが それは連作ではなく 頭の中にある画像をより良く具体化するためであると言っている。確かにそうだろうが 写実表現ではそのような追求は素描や下絵などを描く事で解決を計り その中の決定案をキャンバスに写して本制作に入る。しかしこれらの素描や下絵は実寸ではなく縮小され 彩色も簡略化されている場合が多い。バルテュスが写実表現であった頃は事前に素描を準備していた作品もあるが 具象表現になってからは創案を描く事はあっても 素描や下絵はあまり描かなかったようだ。それに若い頃の摸写などを見ると 素描や下絵に頼らずに直接にキャンバスに描いている事からも 事前の入念な準備は頭の中で行なわれ 本制作でも試行錯誤を繰り返しながら 自分の追う画像を具体化する制作の仕方であったようだ。この方法では本制作に入る前にいろいろな選択肢を排除していないのだから 完成後に別な例が思い浮かぶとしても当然かも知れない。つまりバルテュスのやり方は自分の考える画像を一つに絞らないで 他の案も活かそうとしているのである。それゆえに一つの画題を繰り返し描くいているのであろう。この結果 残された作品は同じ画題ながら多様な面を見せ それぞれの違いを味わえると言う事になっている。 

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*15 なぜ過去の作品を描き直すのか。

数えてみると14点の作品が一度完成した後に手直しを行なっている。「鏡猫 3」は公開された後に手直しを繰り返され 3 回も異なった完成の姿を公開している。また「街路」では購入者の意向を受け入れて部分的な直しを行なっている。この「街路」は例外として 手直しの大半は構成の変更であり それだけ構成に気を使っていた事が分かるし 先の制作方法からもその理由は明らかだ。しかし人物画の手直しは別で ほとんどが顔の描き直しである。中には青年期の作品で 描いてから 50年も経ってから修正されている例もある。この人物の顔の描き直しを見比べると不思議な共通点がある。それは手直しによって整えられた顔に変更されている事である。つまり直される前はもっと異なる顔立ちや表情で 通常の肖像画から見れば異形とも言えるように描かれていたのである。これは現実の実体は不均衡にあるとする 冷徹な本質への追求が成した結果なのだろうが それにしても皆 不機嫌な異形である。これらの手直しは作品が個人の肖像画でもある事を配慮して修正されたのだろう。

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第五章 P20-P21

* 16 なぜ現代の絵画を否定するのか。

20世紀の絵画は 1950年代を境に前半と後半に分けて捉える事ができるが 前半の1950年代以前は主に印象主義以後の具象絵画とその後の抽象表現を生み出すまでで 1950年代以降の後半はポップアートなどの新たな表現が発明されている。これらの中でバルテュスが否定した一つはキュビスムや抽象表現などで 理由は描く対象を人々の居る現実から離脱させ 形や色彩などによる表現の可能性を追求する事のみに 労を費やすようなに見えたからである。またそれまでに行なわれた表現様式を否定する事で 成立させようとするやり方にも批判的で これは過去の絵画の遺産を引き継ぐ事を拒否しているように思えたからである。またポップアートなども一過性の流行のような様式の創造として捉えて否定的であった。つまりバルテュスは人々の住む現実世界を基にして描く画家であり そこに表現すべき本質があり 鑑賞者である人々とのつながりがあると考えていたのであり 具象表現から抽象表現を開拓する表現の創造は 現実をなおざりにする事であり 表現のための表現のように思えたのだろう。バルテュスは自らを伝統主義者であると言っているが *これは過去の絵画表現を否定する事によって起こる断絶ではなく むしろ過去の様々な絵画表現についての考察を継承し それを生かして より高い次元に至る道をさぐるべきだと考えていたからである。

第五章------P20-P21-[更新済み]

第五章   P22-P23

以上がバルテュスの謎についてだったが 他にも注目すべき特徴がある。
それをここで追記として述べる。

*手の表現について。

人物を描くにあたって 手は顔の次に表情を持つものである。バルテュスはこれをどのように扱っているか確かめてみると いろいろな作品にその工夫を見る事ができる。「アンドレ・ドランの肖像」では 胸にあてられた左手の薬指だけがシャツの中に入っている。この細い指はドランの押しの強い態度とは別な 彼の繊細さを表している。また「ギターのレッスン」の太ももに置かれた手もわし掴みのようだが それだけでない豊かで微妙な表情を持っており 「トランプをする二人」では二人のトランプを持つ手は いかにも薄い紙片を持っている感じが巧で目にとまる。登場人物が多い「街路」では12本の手が描かれているが それぞれの表情に変化が与えられている。しかし同じく登場人物の多い「コメルス・サン・タンドレ小路」では手の表情はまったくと言ってよいほど与えられていない。これは手の表情で街の活気と沈鬱を描き分けているからである。さらに「画家とモデル」では娘の右腕の間から覗く 左手は小さく愛らしく 小指だけが真直ぐに伸びている。この小指にまで気を行き届かせる娘の感性は 細やかで早熟さをも感じさせる。
以上のような手と指などの細部への気遣いは 画家自身の神経の在り方を示しているが その全てを画家が指示したのではなく 描かれた人物の作り出した表情もあるだろう。つまり描かれた人物の神経の在り方も重要で 画家の感性に感応できる者でなければ このような細やかな豊かさは成立しないだろう。

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第五章  P24-P25

*柄と模様について。

先に簡素と複雑について述べたが その複雑さに重要な役割を果たしているものの一つに柄と模様がある。この柄が最初に印象的な登場を果たすのは「街路」の後ろ姿の女性の帽子であり 次に「キャシーの化粧」の足元の絨毯の模様などである。帽子の十字は時代を超えた柄であり その形と赤い色によって街の活気を生み出す役目も果たしている。キャシーの足元の絨毯は虚飾への憧れを演出している。また柄と模様はその装飾性と複雑さで画面の充実度を上げる役割も果たし 「夢 2」では画面は模様に占有され 「黄金の果実」では椅子の背もたれも模様の一部になっている。またかなり大胆に個性的な柄や模様を用いている例もある。「身支度をする若い娘」の壁の矢がすりのような模様 「夢 1」の奥の壁の市松模様 「暖炉の前の裸婦」の壁の丸みがかった模様 「トルコ風の部屋」の壁も個性的だ。これらは模様の方が主役ではないかと思えるほどであり 柄と模様に対する強い関心とその効果の追求が試みられている事が分かる。「トルコ風の部屋」の壁の模様はヴラ・メジチ館の 1室にあるが モンテ・カルヴッェロの浴室も この模様のタイルで設えてある。また日本的な柄と模様を使い 異国情緒を与えている作品もある。「黒い鏡と日本人」の敷物など。また「鏡猫 1」のように柄と模様と皺を構成的にまとめあげた作品や「鏡猫 3」のように柄も模様も皺も溶け込んで 一体化しているような例もある。このように多様な柄や模様が描かれているが それぞれに印象的であるが 中には調和的とは思えない場合もある。「まどろむ若い娘」では様々な柄と模様を配して充実し過ぎではないかとも思えるほどだ。しかしこのような過飾性はヨーロッパ文化の装飾の持つ重厚緻密を引き継いでいるからだが この考えの基は装飾は汲んでも尽きぬ豊かさの象徴であるからだ。つまり氏の柄と模様も その複雑な形や色彩によって埋め尽くす際限のなさよりも 圧倒する密度がもたらす充実感を求めているからである。

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第五章  P26-P27

*技法について

バルテュスの技法で最も代表的なものは 乾筆(ドライブラシ)による重ね塗りとバルテュス壁と呼ばれる画肌である。画肌とは画面に塗られた絵具の状態を言い 塗られた絵具の状態を表現方法の一つと見るのは 写実表現よりも具象表現になってからで多様な技法が考案されている。乾筆(ドライブラシ)による重ね塗りは 溶き油を少なめに溶いた絵具をかさつかせながら塗り その凸凹を利用しながら重ね塗りして作り出す。代表的な作品は「窓辺の薔薇の花束」などである。またバルテュス壁は バルテュスが考案してヴェラ・メジチ館の壁に施された技法なので このように呼ばれている。これは乾筆の重ね塗りと良く似ているが 塗られた絵具をガラス瓶などを擦り付けて作り出す。「読書をするカティア」などに用いられている。このような画肌はバルテュスの作品に欠かせない密度による重厚さを与えている。また他の技法では仕上げに薄く溶いた絵具を塗り重ねる お汁がけ(グラッシ)も使われている。これは「横顔のコレット」に見られる。これらの技法は全ての作品に使われている訳ではないので これらも絵画表現の可能性を追求した結果の一つで 表現技法の創造である。 
また描画の技巧として印象的な例を挙げると「カッサンドル=ムーロン一家」では 少年の持つ新聞を戸惑う事なく一気引いて描いている。これは丹念に仕上げる乾筆の重ね塗りとは正反対の即興性が必要だが 軽々とこなしている。また「鏡を持つ裸婦」の頭髪は 偶然の造形を巧みに利用している。これも丹念に塗り重ねる仕事ぶりとはひと味違い 抽象的な形態も充分に理解していた証と言える。

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*素描について

本制作以外の作品に素描があるが これらは本制作の創案や下絵となるものがあり また本制作とは直接結びつかない単独のものなどがある。これらは主に外形線描法で描かれ そこに光と影の明暗を与えて立体感を出す方法が取られている。線描法では他に線を揃えて引くハッチング描法なども使われている。これらの素描のほとんどは鉛筆が使われているが その扱い方は実に繊細で丁重であり 穏やかな筆致と控えめな筆圧は濃く塗られる事は稀である。またペンによる速筆も残しているが これらの線は勢いよく引かれ 戸惑いがない。鉛筆の素描の丁重さと比べると別人のように達者に見える。
やはり素描に描かれているのは若い娘達が多く 様々な姿勢や部分を描いており それらは乱暴に扱うとその無垢さが失われてしまうかのように丁重に描かれている。それは根底に彼女等への愛おしさと慈しみがあるからだろう。これらは素描と呼ぶよりも創作を生むための培養液であり 感性の襞を潤す恵みでもあったであろう。
しかし中には数少ないが 性のそのものに一歩踏み込んだ素描もある。ここでは無垢な存在に潜む性の有り様を見つめているようだ。それは未成熟な肉体ゆえに放香は薄いが 性の原点への素直な関心を告白している。

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第五章  P28-P29

*色彩について 

バルテュスの色彩は茶系を主にしながら落ち着いた色調を用いていると思われがちだが 実はかなりいろいろな色彩を用いている。特に戦後に移り住んだシャシー時代は風景や陽光を描いているので色数も増え 彩度も明度も高くなっている。そして代表的な技法の乾筆の重ね塗りでは 視覚混合による色彩の微妙さも作り出している。また全体的には微妙な色彩の調和を得意としながら 対比的な色彩の配色も多く見られる。
これらの中で印象的な色彩を使っている例を挙げてみると「街路」の赤色は不思議な使い方をしている。これは女性の帽子の赤とその奥の建物の入口は同じ赤色であり また左手前の娘の上着と左の建物の奥にある看板も同じ彩度の赤色である。色彩の遠近法では奥にあるほど 色彩の鮮やかさを下げて目立たなくして遠近感や空間性を生じさせるのだが ここではそれが行なわれていない。つまり赤色は画面の奥行に関係なく使われおり 遠近法は無視されているのである。これはこの絵が街と群像を再現的に描きながら 遠近感を無視した配色を行なう事で 写実表現の法則に捕らわれずに より複雑な状況を作り出すための技巧のようだ。これも汲めど尽きぬ源泉たるべき表現への工夫の一つだろう。 
また「鏡の中のアリス」も興味深い色の扱い方をしている。この画面は描き終った後に薄く溶いた茶系色をお汁がけ(グラッシ)をしているように見え この薄い膜自体がアリスを写す鏡のように見る。しかし実際にはお汁がけは行なっていないようだ。「夢見るテレーズ」では赤と白による視線の誘導という高度な技が使われていた。またP252の「三姉妹」では三人の娘達の衣服や長椅子 壁などを面ごとに塗り分けている。これは形と色彩による構成の例であり この面ごとの配色は色彩のもたらす効果を最大限に引き出している。これと「夢 2」を見比べると後者の色彩は重厚で微妙だから まるで正反対である。同じ作者とは思えないほど色彩の扱い方が異なっている。さらに傾向の違う作品は「青い布」で ここでは全体に白色を混ぜたような明度の高い色を多用して 穏やかでまろやかな明るさを与えている。これらの様々な色彩の扱い方は氏の幅の在り方であり 色彩の効果を追求した結果だろうし その創作世界が一概に捉えきれない証の一つでもある。
最後に最も印象深い配色の例を取り上げよう。それは晩年のロシニエ−ル時代に描かれた「画家とモデル」である。この机上の印象的な小箱には対比的な三色が使われているが この配色から受ける印象を言語化すると 未成熟 奇妙などとなる。そしてこの奇妙にも見える小箱は画家と若い娘に次ぐ存在であり 色彩化した猫のようである。
以上のような特徴的な色彩の扱い方は他にも見い出す事ができるが それは鑑賞者自身の発見にゆだねる事にして 色彩における感性の独特さと工夫は バルテュスの見逃してはならない特徴であり ここでも絵画表現の創造を追求していた事が明かになっている。

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第五章  P30-P31

* 日本の絵画との関連について

バルテュスは幼い頃 すでに東洋美術に関心を持っており その知識でリルケを驚かしたりもしている。東洋と言っても広く この頃は中国絵画に関心を持っていたようだ。しかしアカデミー・フランスの館長時代では 日本の古典美術展のために作品選定を行なってもいる。この事からも氏が絵画を西洋中心で捉えていない事は明かである。そして実際に自らの作品にも 日本の古典絵画の様式を取り入れている。それは「黒い鏡に向かう日本の女性」と「赤い卓と日本の女性」の二点であるが 東洋的である点で「トルコ風の部屋」を加える事もできる。しかしやはり先の2点の方が様式を より明確に取り入れていて 氏の異国の絵画様式への理解の深さを表している。しかしこれらは様式の具体的な応用であり 肝心なのは 中国または日本絵画の考え方の理解の仕方ではないだろうか。
夏目漱石は西欧と日本の絵画の違いについて「西洋絵画は即物過ぎ 神往の気韻に欠ける点がある。」と述べている。これはものを描く事よりも 心引かれるものに対して その気高さを表さねばならないという事である。つまり神往の気韻とは 心引かれるものを神聖なるものとして捉え その気高さを不可視なもの または神妙なる気配として捉えねばならないのである。これは眼に捉えられるものよりも 抽象的な雰囲気を感じ取る事が重要で これが中国または日本の表現の目指す所であると漱石は言っている。これをバルテュスの作品に照らし合わせると「シャンプロヴァンの風景」や「ラルシャン」などに類似点が見られる。これらには無限性や永遠性を感じ取る事ができ 即物性を越えた神往の気韻があると言える。氏の日本の古典絵画とのつながりは その完成度の高い独自な様式を取り入れた事よりも 視覚的に見えないものを感じ取り 描き表す事において共通点がある。
また日本絵画には関係性を持ったものを 組み合わせて描くと言う伝統的な手法がある。例えば月に雁 梅に鶯 鶴と竹林などの組み合わせである。これは互いの存在を引き立て合う組み合わせであり この関係によって絵画を成立させ 雰囲気を創り出す典型的な手法である。これも氏の作品に照らし合わせると「鏡猫 3」の三位一体を目指す関係性は この手法に符合する。
しかしこのような類似点は 氏は中国と日本の絵画から受けた影響と言うよりも 西欧の文化のみならず絵画の本質を学ぼうとする姿勢から生じた結果だろう。これは初期ルネッサンスから学んだと同じである。そしてその結果 世界における絵画表現の多様性の一部を明らかにしたのである。

* 夏目漱石 1867-1916 小説家 評論家 英文学者 日本を代表する小説家。1906年刊行の小説「草枕」に「神往の気韻」は書かれている。代表作「我輩は猫である」「こころ」「明暗」など。

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第五章  P32-P34

*自己開放と混乱について 

バルテュスの作品の全てを肯定すると 氏は創造者として「黄金を実らせる樹」になってしまう。これは「私の吐き出すものは全て芸術だ。何故なら私は芸術家であるからだ。」*と言った主張に通じてしまう。これほど傲慢ではないにしても 全てを肯定するとはこういうものだろう。
氏の作品の中にも気になる作品はある。例えば「両腕を上げた裸婦」や「夢 1,2」などで これらはそれまでの形態や構成の厳格な秩序が見られず 秩序は構築されきっていない。シャシーの時代以前は厳格な構成と形態による秩序の構築にこだわっていたのだが シャシーに移り住んでから作風は大きく変化している。 これはそれまでの写実表現を基にした作風から 本格的な具象表現への移行を見せる転機であった。この移行後に先の作品は描かれている。
この変化には理由があったはずで それまでの写実表現では描法上の約束事が多く これは一種の制約とも言えるが これに比べると具象表現はより自由度が高い。この自由性を求めて具象表現を実践するとしたなら 一種の自己開放を行なわねばならない。写実表現を基にした造形感覚や構成感覚を解き放ち 自らの個性や癖などを許容するのである。例えば形態を具象表現化するには崩し 単純化 強調などの技巧があるが このような技巧よりも個人的な癖や均衡感覚が大きな働きをする。そして写実表現とは異なる新たな秩序が必要となる。この秩序をどのように成立させるかは 当時の氏の大きな課題であったろう。この問題に対して氏は真摯に取り組んだであろうが この移行は今までの秩序感の喪失であり 新たな秩序の構築に挑む事である。ここに秩序の混乱とも言える状態が生じたのではなかろうか。このように考えると「両腕を上げた裸婦」は今までの秩序の喪失であり 「夢 1,2」は新たな秩序の構築を目指していると言える。つまりこれらの秩序の混乱は 自己開放と新たな秩序を作り出す過程で生じたものである。さらに平面化された作品やゆるみのある線の構成も 具象表現の新たな秩序の構築の一環であると解釈できる。このような苦慮の結果に到達した新たな秩序の構築は「樹木のある大きな風景 (三角形の畑)」や「シャシー農場の中庭 (樹木のある大きな風景)」などに見る事ができる。
だが秩序の混乱は晩年の作品にも見られる。この例は P343の「静物」や「モンテ・カルヴッェロの風景 2」などである。これらは高齢による肉体的な衰えが原因と思われているが それだけではないはずで もっと根が深いものがあると思われる。つまり開放された氏の造形感覚と構成感覚の根底には 不安定な秩序感が潜んでおり これが晩年やシャシーの時代などに 時々むき出しになっているのではないだろうか。しかし晩年にはこれさえも許容し 一種の秩序の構築への無関心 または厳格さの放棄を起こしているが これは開放のし過ぎとも言えるが 一種の超越的な境地に至ったとも言える。
このように創作の過程さえも露にし 隠さないのは何故だろう。創造に対する正直さだろうか。

*この言葉はクルト・シュヴィッタースの発言。

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