第二章 P7-P8

第2章 略歴と時代

この章ではバルテュスの略歴に並記して その時々の時代に起こった主な出来事と他の作家の作品を記している。これはバルテュスと時代の関係を確かめるためである。例えば彼の幼年時代には第一次世界大戦が起こっているし 31才の年には第二次世界大戦が勃発し37才まで続いている。また戦争以外の社会の出来事も戦後の復興や経済を中心とする資本主義の邁進 共産主義の誕生と崩壊 または宇宙開発などと様々な出来事が起こっている。また表現の世界でも1800年後半から それまでの写実表現に対して印象主義などによる具象表現が出現し さらにキュビズムなどを通して1950年頃までに抽象表現が確立される。さらにその後は伝統的な表現を越えた新たな表現様式が 数々と誕生した。そのような時代の変革の中で バルテュスはいかにあったのかを検討する事も彼を理解する上で欠かせないはずである。

1908年2月29日 クウォソフスキ−家の次男としてパリに生まれる。父はエリック・クウォソフスキー(1875-1946)。母はエリーザベト・ドロテア・スピロ 通称バラディーヌ(1886-1969)。二人兄弟の兄はピエ−ル・クウォソフスキ−(1905-2001)。バルテュスという名は愛称で 本名はバルタザ−ル・ミシェル・クウォソフスキ−・ド・ローラである。バルテュスは自らの誕生日が4年に一度の閏年なので 人の四分の一しか年を取らないと面白がっていた。またクロソフスキーではなくクウォソフスキーが正しく クウォスとはスラブ語で麦の穂という意味であると本人が指摘している。父エリックはポーランド貴族の流れをくむ旧家の出で 美術史家であり画家でもあった。著作に「オノレ・ドーミエ」がある。母バラディ−ヌも絵を描き多才で社交的な人であった。兄のピエ−ルも作家であり画家でもある。主な著作には「ロベルトは今夜」などがある。
バルテュス氏が生まれた1908年は20世紀の始まりの頃だが それ以前の1800年代に起こった大きな社会変化であった産業革命を引き継いでいた時代だった。産業革命は1800年初頭にイギリスに興り ベルギー フランス アメリカ 日本の順に成し遂げられたのだが それは科学と技術による様々な発明によって成されたものである。1800年代の主な発明には写真機 ミシン 電話 タイプライター ガソリン自動車 動力付き織り機などがあり コれ以前にはすでに蒸気機関車もあった。こうした技術革新に対して国や民間の資本が投資され 次々と新たな事業と興り それまでになかった巨大な産業形態が作られた。また人と物資を運ぶために自動道や鉄道が整備されていき 海上では船舶の建造技術の向上によって より安定した海路が得れるようになる。これらと共に医療の充実などによって人口は増大し 大量の労働力を得る事ができるようになる。人々を養うための農業も革新され生産量は増大されていく。こうした産業革命に成功した国は近代化を果たし 先進国と呼ばれる。
また先進各国は工業生産に必要な原料を手に入れるために アフリカやアジアなどの他国に次々と植民地を作っていく。こうしてさらに国力を得て強国となった国々は 他の先進国との勢力争いを展開するようになる。これが後の2つの大戦の原因となる。
第一次世界大戦は1914年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が暗殺され これを契機にヨーロッパ各国を巻き込む大戦が起こる。そして1918年まで続く。この戦争はドイツ オーストリア オスマントルコの同盟軍対イギリス フランス ロシアの連合軍との間で行なわれ 人類史これまでにない規模の戦争であった。この時バルテュスは6才から10才までの時期にあたる。この戦争は近代化を果たした国の工業力と開発力の戦争でもあり 様々な新しい兵器が開発され使用された。機関銃 火炎放射器 毒ガス そして1886年に内燃機関を持った自動車が発明されたが これは軍用車や戦車などに応用された。また1903年にライト兄弟が始めて飛行に成功した飛行機も攻撃機や爆撃機として実用化される。さらに造船技術は鋼鉄製の軍艦や魚雷を発射する潜水艦を作り出す。これらの殺戮兵器の発明は産業革命による新たな時代の構築を夢見る人々を 絶望の底に陥れる結果となった。この大戦による死亡者は約1000万人で 負傷者は約

2000万人であった。そして戦場となった国々の国土は荒廃し国力は衰え 勝戦国であったロシアは その後革命によって共産主義となりソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)となり 敗戦国のオスマン帝国はトルコ共和国に変わっている。また主犯国であったドイツは莫大な賠償金を負う事になり これが第二次世界大戦を起こす遠因ともなる。
バルテュスの父親エリックの祖国はポーランドだが この国は第一次世界大戦前の1914年にはドイツとロシアなどの領土になり滅亡し その後に復活するが それは1945年に終結した第二次世界大戦の後である。つまりクウォソフスキ−一家はこの間 自らの家系の地である祖国を失うのである。また両親はドイツ国籍であったために家族と共にスイスなどに転居している。
さらに21年経った1939年には前回よりも大きな世界的な大戦が勃発する。この第二次世界大戦はヒトラー率いるドイツ軍によって引き起こされ イタリアなどの参戦によって その周辺国との大戦になり ヨーロッパ諸国は占領され ソ連への侵攻が行なわれる。そして戦火はイギリスの統治下にあったエジプトや北アフリカでもおよび さらに日本軍のアメリカへの宣戦布告によって 太平洋戦争も勃発する。ドイツとイタリアなどの国もアメリカに宣戦布告し 戦争の規模はより拡大する。しかし戦争が長引くにつれ 占領国のドイツ イタリア 日本などの戦力は弱まり アメリカ軍とソ連軍を主とする連合国軍がヨーロッパ戦に参戦する事で終息に向かう。イタリア軍の降伏 ついでヒトラーの自殺によってドイツ軍は無条件降伏 その後日本も無条件降伏して第二次世界大戦は1945年に終結する。この大戦はバルテュスの31才から37才の時期にあたる。この戦争による犠牲者は約5000万人 ロシアが約2000万人 またナチスによる強制収容所では約1000万以上 その内約600万人のユダヤ人が大量虐殺された。また日本に落とされた2つの原子爆弾によって約40万人の民間人が犠牲者となる。バルテュスも1939年のアザルス戦で負傷している。つまりこれらの戦争は産業革命に成功して先進国となった国々の主導権と利権の争いであり さらに民族主義がからんだ過去に類を見ない大きな戦争であった。

バルテュスの画家としての期間は非常に長い。長寿であった事がその理由であるが そのわりに作品点数は多くない。制作期間を時期的に分けると7期に分けられる。幼年期1920以前 1-12才。初期1920-1931 12-23才。青年期1932-1938 24-30才。第二次世界大戦とその後の時代 1939-1953 31-45才。シャシーの時代1953-1961 45-53才。ローマの時代1961-1977 53-69才。ロシニエールの時代1977-2001 69-93才。この分類はガリマ−ル社刊行で監修ジャン・クレールのカタログ・レゾネに準じているが 主に住んだ場所によって分けられている。屋外風景などは転居先の環境を描く事が多いので この分け方を採用している。しかしここでは第二次世界大戦とその後の時代を1939年からにしている。これらの7つの時期にはそれぞれ特徴があり 同じ画題を繰り返す事も多いが 表現描法や画面構成と色彩などは年代によって変化している。そしてこの頃の西欧絵画は印象派を経て 後期印象主義のゴッホ ゴーギャン セザンヌが活躍した後で アールヌーヴォーとフォーヴィズムの全盛期であり マティスもピカソもすでに活躍していた。またピカソはバルテュスが生まれる前年の1907年にキュビズムの始まりを示す「アヴィニヨンの娘達」を描き セザンヌは1906年に死去している。印象派が現れる以前の1800年代は アングルを代表とする古典主義やドラクロアを筆頭とするロマン主義 そしてクールベの写実主義が隆盛を誇っておりこれらは皆 写実表現であった。
1908年前後の主な作品。1842ジャン=オギュ−スト=ドミニク・アングル「奴隷のいるオダリスク」。1849ギュスタ−ブ・ク−ルベ「オルナンの埋葬」。1861ウジェ−ヌ・ドラクロワ「獅子狩り」。1863エドゥワ−ル・マネ「オランピア」。1860-62オノレ・ド−ミエ「3等車」。1872クロード・モネ「日の出−印象−」。1889フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」。1894ポール・ゴーガン「神の祝日」。1894エドヴァルト・ムンク「思春期」。1904-1906ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワ−ル山」。1900エクトール・ギマール「パリの地下鉄入口」(アール・ヌーボー)。1905-1907アントニォ・ガウディ「カサ・ミラ」(建築)。

第二章 P9-p10

*幼年期 1920以前 1−12才まで 制作作品1点
油彩画を描く前の幼年期である。6才から10才までの間は第一次世界大戦があり 各地に転居している。8才から11才にかけて具象表現による「ミツ」を描いている。これは13才の時に リルケによって「ミツ−バルテュスによる40枚の絵」と題して刊行される。これが最初の公にされた作品で 才能の発露はこの頃から始まる。

1908−14年 1才−6才 第一次世界大戦が勃発するまでの時期で転居が多く パリのポワソナ−ド街 ラ・グランド・ショミエ−ル街 フロワドヴォ−街 サン=ジェルマン=アン=レイで過ごす。両親は豊かな教養と強い自尊心を持った人物であったから それは当然 息子達に引き継がれたはずである。
1914年第一次世界大戦 勃発。クウォソフスキー一家はドイツ国籍のためパリを離れドイツへ向かう。1909エ−ゴン・シ−レ「自画像」。1910アンリ・ルソ−「夢」。1910アンリ・マチス「ダンス」。1914ジォルジオ・デ・キリコ「街の神秘と憂愁」。

1915−1917年 7−9才 第一次世界大戦にアメリカなども参戦する。母と兄と共にドイツからスイスのベルンに転居し ついでジュネーブで暮らす。インターナショナル・スクールに通う。8才の頃からミツと名付けた子猫との出合いと別れまでの物語「ミツ」を描き始める。9才の時に父親が別居。多感な時期に父親との別れを経験する。
1917アメデーオ・モディリアーニ「ハイム・スーチン」。

1918年 10才 4年4ヵ月続いた第一次世界大戦が終結。

1919年 11才 母親の知人であった詩人のライナー・マリーナ・リルケと共に夏の休暇を過ごすようになる。「ミツ」を描き終える。
ライナー・マリア・リルケはオーストラリア出身の詩人であり作家 プラハ生まれ1875-1926。ヨーロッパ諸国を放浪し パリではロダンの秘書を務めていた事もある。主な作品は詩集「形象詩集」 小説「マルテの手記」 評論「ロダン」など。印象主義と審美主義の混合した独自の境地を開拓し 近代言語芸術の巨匠とされている。バルテュスは後にリルケについて「常に一人前の人として扱ってくれた人でした。」と述べている。

*初期1920-1931 12才-23才 制作作品数62点
少年期から青年前期の11年間。油彩画を描き始め 絵具の扱い方を学んでいる期間である。表現描法は具象表現。しかしリュクサンヴール公園の子供達などを描いた作品では すでに人が作り出す姿勢に関心を持ち 同じ場所に居ながら互いに関係を持たない状況(同居の無関係)を描いている。これらは生涯を通じて見られる特徴でバルテュスの初源的な特徴と言える。16才で画家になる決意をする。しかし美術学校には進学せずに バロック絵画の巨匠と初期ルネッサンスのフレスコ画を模写し 独学の基礎としている。また代表作の一つである「街路」の原形もすでに描かれている。この時期の重要な作品「プロヴァンスの風景」「リュクサンヴ−ル公園の子供達」。

1920年 12才 最初のパステル画を描く これはガリマ−ル社のカタログ・レゾネではP1とされている作品だが現存していない。

1921年 13才 「ミツ−バルテュスによる40枚の絵−」出版される。リルケの序文と尽力によって

チューリッヒのロタブフェル書店より刊行される。母と兄と共にベルンにもどる。
マン・レイ「贈り物」。

マックス・エルンスト「セレベスの象」。1922年 14才 ミュンヒェン市立劇場で行なう中国の演劇の舞台装置の模型を作るが実現はされなかった。画家で彫刻家のマルグリット・ベイの助手を務める。
イタリアでムッソリーニが首相となり1925年には独裁者となる。
エドガー・ドガ「着衣のバレリーナ」。ハイム・ス−チン「赤い頃もの女」

1923年 15才 母と共にベア−テンベルグへ移住。兄ピエールはリルケの計らいでバリに行き アンドレ・ジッドのもとに滞在する。「風景 (ムッゾ地方)」など 初めての油彩画を4点描く。
マルセル・デュシャン「彼女の独身者達によって裸にされた花嫁 さえも」(大ガラス)」。

1924年 16才 ベア−テンベルグで12才のアントワネット・ド・ワトヴィルと出会う。画家になる事を決意して母と兄と共にパリにもどる。ピエール・ボナール モーリス・ドゥニに会い 古典の摸写を勧められる。他にクロード・モネ アンドレ・ジッドとも会う。アカデミー・ド・グラン・ショミエナ−ル美術学校の講習を受ける。カルヴァン高校入学。
アンドレ・ブルトン「シュールリアリズム宣言」発表。フランツ・カフカ死去41才。

1925年 17才 「プロヴンスの風景」「リュクサンヴ−ル公園」などを制作。ルーブル美術館でニコラ・プッサンの「エコーとナルキソス」を模写する。この摸写は完成後にリルケに贈られた。フランス国籍を取得。
ヴァルター・グロピウス「バウハウス」創設。佐伯 祐三「レ・ジュ・ド・ノエル」。

1926年 18才 イタリアを旅し マザッチョとピエロ・デッラ・フランチェスコのフレスコ画を模写する。他にフェレンツェ アレツッオ ヴェネツィアなどを訪ねる。12月末にリルケ死去 享年51才。イギリスで世界初のテレビの公開実験に成功する。
オスカー・シュレンマー「三組のバレエ」バウハウス。シュルツ=ノイダム「メトロポリス」映画ポスター。

1927年 19才 スイスのラローニュで行なわれたリルケの埋葬に立ち会う。「リュクサンブール公園の子供達」などとベアーテンベルグのプロテスタント教会にテンペラによる壁画三枚を制作する。
リンドバーグがニューヨークからパリの大西洋横断無着陸単独飛行に成功。
イヴ・タンギー「ママ パパが怪我してた」。

1928年 20才 スイスのベルンとチューリッヒに滞在。「リュクサンブール庭園」「河岸」「オデオン広場」などを制作。
ニューヨークのウォール街で株価が大暴落し 世界恐慌と呼ばれた不景気が起こる。多くの人々は失業に追い込まれる。ロシアに革命が起こり共産主義となり 国名がソビエト社会主義共和国となる。
ルネ・マグリット「偽りの鏡」
ジョージア・オキーフ「シェルトンから見たイースト河」。

1929年 21才 チューリッヒのフォーター画廊に作品を初めて展示される。作品の署名をBalthusと

第二章  P11-P12

とする。ジョ−ジア・オキ−フ「黄色いサボテンの花」。

1930年 22才 ワトヴィル家で夏を過ごし 幼なじみのアントワネットと再会し 恋に落ちる。モロッコのケニトラおよびフェズで15ヵ月間の兵役につく。「座っている若い娘 (アントワネット)」を制作。
当時モロッコはスペインとフランスの植民地であり 先住民と争いが絶えなかった。ル・コルビュジェ「サヴォワ邸」。エドワ−ド・ホッパ−「日曜日の早朝」。

1931年 23才 モロッコの兵士や馬などを素描し「兵舎」の下描きを描く。12月に兵役を退役。サルバドーレ・ダリ「記憶の固執」。

*青年期1932-1938 24才-30才 制作作品数54点24才から31才の7年間。生涯を通した代表作となる作品を描いた時期で そのほとんどは最初の個展に発表した作品であった。これらは写実表現を基にしているが 具象表現による「嵐が丘」の挿し絵も描いている。裸婦などの人物像は挑発的な性の露呈を示し 風景画の「ラルシャン」では宇宙感にも通じる広大な空間を描き その早熟さは過激でもあった。29才の時に幼なじみのアントワネットと結婚している。この時期の重要な作品「嵐が丘」の挿し絵。「鏡の中のアリス」「街路」「キャシーの化粧」「ギターのレッスン」「夢見るテレーズ」「ラルシャン」。

1932年 24才 ベルンで夏を過ごし ベルン歴史美術館でヨーゼフ・ラインハルトの作品「スイス農民の民俗衣装」を模写する。パリに戻った後は友人のレリス夫妻と共同生活をする。アンドレ・ドランと知り合う。「乗馬服を着た少女」を制作。ベン・シャーン「サットとヴァンゼッティの受難」。

1933年 25才 パリに最初のアトリエを持つ サン=ジェルマン=デ=プレ フュルスタンベルグ街四番地。アンドレ・ブルトン ポール・エリュアール アルベルト・ジャコメッティ アントナン・アルトー ピエール画廊のオーナーのピエール・ロエブと知り合う。エミール・ブロンテの小説「嵐が丘」の挿し絵を描く。モデルはレリス夫妻だがバルテュスとアントワネットの姿でもあった。「鏡の中のアリス」などを制作。ヒトラーがドイツの首相になり ナチズムが台頭し ユダヤ人への迫害が開始される。
ピエ−ル・ボナ−ル「庭に面した中庭」。

1934年 26才 4月にパリのピエール画廊で初めての個展を開く。「街路」「キャシーの化粧」「ギターのレッスン」「鏡の中のアリス」「窓 (幽霊の恐怖)」「兵舎」などを発表。アントナン・アルトーが作品についての評論を「新フランス評論」に発表する。当時は新たな表現としてシュールリアリズムが注目されていたが その中にあってこれらの作品は挑発的な内容と共に大きな反響を得る。しかし生涯を通じてこれらの作品の印象がついて回る事になる。婚約者のいたアントワネットとの恋愛がうまくいかず 自殺未遂と思われる行動を取る。ピカソがアトリエを訪れる。シャンゼリゼ劇場のシェイクスピア「お気にに召すまま」(翻訳ジュール・シュベルヴィエル 演出ヴィクトール・バルノフスキー)のために舞台装置と衣装を担当する。

1935年 27才 パリのワグラム劇場でアントナン・アルトーの「チェンチ一族」上演。舞台装置と衣装を担当する。「レディ・アブディの肖像」「猫達の王」「シェイラ・ビッカリングの肖像(猫達の女王)」「ムーロン・カサンドル一家」「レリア・カエターニ」などを制作。「嵐が丘」の挿し絵シリーズの一部が雑誌「ミノトール」に掲載される。同じ地区のロアン小路にアトリエを移す。毛沢東 中国共産党の指導者になる。カッサンドル「ノルマンディ号」ポスター。

1936年 28才 「山 (夏)」「アンドレ・ドランの肖像」「ノアイユ子爵婦人の肖像」「テレーズの肖像」「ロジェと息子」などを制作。この頃ピエール・ロエブの紹介で肖像画の依頼を受ける。「街路」がジェ−ムス・スロ−ル・ソビーに購入される。ロンドンのランド・ハンフリーズ書店にて「嵐が丘」の挿し絵を展示。幾たびかロンドンを訪問。ドイツ軍がフランス・ベルギー間の非武装地帯に侵攻。アメリカでライフ誌 創刊。ヴァシリィ・カンディンスキ−「コンポジションIX」。

1937年 29才 幼なじみのアントワネット・ド・ワトヴィルと結婚。「ブランシャ−ル家の子供達」「白いスカート」「山 (夏)」などを完成させる。ジョアン・ミロの50才の誕生日のための肖像画を依頼される。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」。1916-37ジョルジュ・ルオー「老いたる王」。

1938年 30才 初のニューヨークでの個展 ピエール・マチスの企画による。以後ニューヨークでは1977年までに6回開催。ピエール・マチスはアンリ・マチスの息子である。「ホアン・ミロと娘ドロレスの肖像」「夢見るテレーズ」などを制作。ヒトラー率いるドイツがオーストリアを併合。ジャン・ポール・サルトル小説「嘔吐」刊行。

*第二次世界大戦中と戦後の時代。1939-1953 31才-45才 制作作品数106点1939年に始まった第二次世界大戦とその後の13年間。戦争に動員されるが負傷し その翌年にシャンプロヴァンへ家族と共に疎開するが 2年後にはここも離れ各地に転居する。この時期は戦争からの疎開で不安定な時期であったが 何枚もの大作を描き これらも代表作となっている。写実表現を会得しながら 徐々に具象表現への移行を見せていく。この時期の重要な作品「「シャンプロヴァンの風景」「ゴッテロン渓谷」「美しき日々」「身支度をする裸婦」「赤い魚」「部屋」「コメルス・サン・タンドレ小路」。

1939年 31才 アルザス戦に動員されるが ラ・サールにて地雷の爆発により負傷し 12月にパリにもどる。「犠牲者」の制作を開始し 「長椅子の上のテレ−ズ」「ラルシャン」などを制作。第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍の侵略はポーランドにもおよび これに対してイギリスとフランスがドイツに宣戦する。
パウル・クレー「美しき女庭師」。

1940年 32才 フランスのサボォワ地方のシャンプロヴァンへ妻と共に転居。「自画像」「サクランボの木」などを制作。
ドイツ軍がデンマーク ノルウェー ベルギー オランダ ルクセンブルグを占領し フランスも降伏する。ポ−ル・デルヴォ−「街の入口」。

第二章 P13-P14

1941年 33才 春に妻の実家であるベルンのワトヴィル家に滞在。「シャンプロヴァンの風景」「客間」などを制作。「ブランシャ−ル家の子供達」をピカソが購入する。
ドイツ軍がソ連に侵攻。日本もハワイを奇襲し 日本とアメリカの太平洋戦争が勃発。日本と協定を結ぶドイツ イタリアもアメリカに宣戦布告する。
ヘンリ−・ム−ア「王と王妃」。

1942年 34才 ベルンに次いでフリーブールに転居。長男スタニスラス誕生。「客間2」を制作。「シャンプロヴァンの風景」を手直しする。アメリカとソ連などの連合国軍がヨーロッパ戦線に参戦する。アルベール・カミュ小説「異邦人」刊行。ジョセフ・コーネル「メジィチのスロットル・マシーン」。

1943年 35才 スイス ジュネーブのモース画廊で個展。「一人占い」「ゴッテロン渓谷」などを制作。イタリアは連合国軍との間に休戦協定結び 降伏する。ピエト・モンドリアン「ブロドウェイ・ブギブギ」。

1944年 36才 次男タデ誕生。パリでピカソを訪問。「緑と赤の若い娘 (燭台)」「美しき日々」のための習作などを制作。連合国軍がフランスのノルマンデーに上陸 ドイツ軍への反撃が本格化し パリは解放される。ア−シル・ゴ−キ−「肝臓は雄鶏のとさか」。ロバート・キャパ「1944 6月6日ノルマンティ−上陸」。

1945年 37才 9月からスイス ジュネーブ近郊コロニーのヴィラ・ディオダティに家族と共に転居。アンドレ・マルローや出版人のアルベルト・スキラと知り合う。「12才のマリア・ヴォルコンスキ王女」「猫と若い娘」などを制作。連合国軍がドイツに侵攻。ヒトラーは自殺しドイツ軍は無条件降伏をする。これによってヨーロッパ戦は終る。日本の2ケ所に原子爆弾が投下され 日本も無条件降伏する。6年にもおよぶ第二次世界大戦 終結。

1946年 38才 アントワネットと別居して単身バリにもどる。ボザール画廊で戦後初の個展を開く。
 アンリエット・ゴメスの企画。「美しき日々」「犠牲者」完成。
ジャン・コクトー映画「オルフェ」公開。フランシス・ベーコン「マグダレーナ」。

1947年 39才 南仏を旅行し ゴルフ=ジュアンに滞在。ピカソ マティス ラカンと顔を会わせ ロランス・バタイユと知り合う。「ジャクリーヌ・マティスの肖像」「地中海の猫」の習作などを制作。

1948年 40才 パリのマリニー劇場でアルベート・カミュの「戒厳令」上演。舞台装置と衣装デザインを担当する。演出ジャン=ルイ・バロー 演出・音楽アルテュール・オネゲル。「トランプをする人々」「金魚」「身支度をする若い娘」「週に四日の木曜日」などを制作。アンドリュー・ワイエス「クリスティナの世界」

1949年 41才 パリのオデオン広場のレストラン「地中海」のために「地中海の猫」と「伊勢海老」を制作。ボリノ・コフノのバレエ「画家とモデル」の舞台装置と衣装を担当。ニューヨークのピエール・マチス画廊で個展。カタログ序文はアルベール・カミュ。父エリックが南仏のサナリーで死去 71才。亡くなる前に父から引き継ぐべき家系の話などを聞く。

中国が共産化し中華人民共和国となる。
フェルナン・レジェ「ルイ・ダヴィットへのオマージュ」。

1950年 42才 エクス・アン・プロヴァンスで行なわれた音楽祭で「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台装置と衣装を担当。「猫と裸婦」「ジャコメッティの肖像」の素描などを制作。ジャクソン・ポロック「ラヴェンタ−・ミストの花」。

1951年 43才 カエターニ家の客としてイタリアに向かい セルモネータの中世の城に滞在しローマやヴェネツィアを訪れる。「イタリアの風景」「ボリス・コフノの肖像」などを制作。アルベルト・ジャコメッティ「犬」。

1952年 44才 ロンドンのルフェ−ル画廊にてイギリスで始めての個展を開催。「部屋}「コメルス・サン・タンドレ小路」の制作を始める。

*シャシー時代1953-1961 45才-53才 94点50年代のほとんどはシャシーに転居し8年間住む。この農地の広がる地方では 多くの野外風景を描き その多くは場所を限定した画面構成を追求した風景画であり また穏やかな陽光に満ちた窓辺にたたずむ娘なども描いている。三角の畑にある謎めく存在を描いた作品もある。同時にそれまでの画題であるトランプをする人々や身支度をする裸婦 寝姿などを描き 果物や花を描いた静物画もある。戦後の復興期であることと風土のもたらす気候のおかげで 色彩は明るくなり 完全に具象表現に移行する。この時期の重要な作品「シャシーの風景  (農場の中庭)」「樹木のある大きな風景(三角の畑)」「窓辺の若い娘」「夢 1、2」「羊小屋」「シャシー農場の中庭 (樹木のある大きな風景)」。1945年に終結した大戦のあと世界の状況はさらに変化する。大戦の戦勝国であるアメリカとソ連は巨大化して世界の主導権を得るが その後この2つの超大国のにら見合いによる冷戦が始まる。しかし他の先進国は復興を果たし 徐々に人々の生活は豊かさを取り戻していく。自動車の普及率は高まり テレビ 冷蔵庫 洗濯機などの電化製品やガス水道などの公共施設も普及し 大量生産と大量消費が押し進められて行く。
戦後の美術界でも1950年頃からアメリカを中心とした抽象表現が活発化し ポロックなどを代表とするアクション・ペインティングが現れる。また新たな否定を試みるネオ・ダダや写実主義を見直すヌーボー・リアリスムが出現する。

1953年 45才 パリから離れ ブルゴーニュのモルバン地方にあるシャシーの館に転居。ウーゴ・ベッティの「雌山羊の島」舞台装置と衣装を担当。「モルヴァンの小風景」などを制作。ソ連でスターリン 死去。遺伝子の二重らせんが発見される。ジョルジュ・マチュウ「絵画」。

1954年 46才 シャッシィの館に兄の義理の娘であるフレデリック・ティゾンを引き取り 共同生活を始める。本格的に風景画に取り組み フレデリック嬢の肖像画も多く制作する。「シャシーの農場の中庭」「横顔のコレット」などを制作。ピアリッツの友人宅に滞在しその家の三姉妹をモデルにする。画商のコンソ−シアムが作品の買い上げを行なうようになる。
「部屋」「コメルス・サン・タンドレ小路」完成。
フェデリコ・フェリーニ映画「道」公開。アンリ・マチス死去85才。

第二章 P15-P16

1955年 47才 ジャコメッティやピエール・マチスなどがシャッシィの館を訪問する。「夢1」「起床」「樹のある大きな風景 (三角の畑)」などを制作。
モーリス・ブランショ「文学空間」刊行。ジャスパー・ジョーンズ「石膏型のある標的」。

1956年 48才 パリのガセット・デ・ボザール画廊とニューヨーク近代美術館で個展を開催。「黄金の果実」「トランプ占いをする女」「夢2」などを制作。ジャコメッティのアトリエを訪問する。ソ連が東ヨーロッパに内政干渉し共産化していく。ポーランドとハンガリーで反ソ連暴動が起きるが鎮圧される。
リチャード・ハミルトン「いったい何が今日の課程をこれほどに変え魅力あるものにしているのか」。
ジャクソン・ポロック死去44才。

1957年 49才 ニューヨークのピエール・マチスの画廊で個展。「黄金の午後」「化粧」「風呂上がり」などを制作。ソ連が世界初の人工衛星スプ−トニクスを打ち上げる。マーク・ロスコ「青の中の白と緑」。

1958年 50才 イタリアで初の個展を開催。トリノのガレリア・ガラテアとローマのロベリコス画廊にて。「窓際のバラの花束」「ロートシルド男爵夫人の肖像」などを制作。フランスでド・ゴールの第5共和政が成立。アンジェイ・ワイダ 映画「灰とダイアモンド」公開。アレクサンダ−・コ−ルダ−「螺旋」。1959年 51才 ジャン=ルイ・バロ−演出のシェイクスピア「ジュリアス・シーザー」の舞台装置と衣装を担当。

「蛾」「羊小屋」「農地」などを制作。

1960年 52才 シャッシィの樹木と館を描いた「風景」や「少年と鳩」などを完成させる。
ジャコメッティのアトリエを訪問。
イヴ・クライン「人体測定」。

*ローマの時代1961-1977 53才-69才 19点60年代と70年代はイタリア ローマのアカデミー・ド・フランスの館長として赴任し16年間に渡って滞在する。この館長職はド・ゴール政権下の文化大臣であったアンドレ・マルローの要請による。しかし他の候補者に非難されるが 逆に注目を浴びる事で作品の評価が高まる。館長としてはヴィラ・メジチの館と庭園の修復と改修を行なう。この時に施した壁の仕上げ方はバルテュス壁として高い評価を受ける。また文化交流として様々な展覧会を企画し コロー ロダン アングル クールベ ジャコメッティ ボナール ブラック ドラン展などを開催する。画家としての作品は少なく 椅子に座る娘 トランプをする人達 身支度をする裸婦などを描くが その中では日本の古典絵画の様式を取り入れた作品もある。この時に描いた日本人女性と再婚する。作品に新たな展開が見られ 晩年のさらなる試みが始まっている。この時期の重要な作品「トルコ風の部屋」「トランプをする人々」「赤い卓と日本の女性」「黒い鏡を見る日本の女性」「読書するカティア」「横顔の裸婦」。
このローマ時代の60年代には商業的な表現を利用したポップアートが起こる。また70年代前後は行動や行為そのものを作品化するハプニングが起こり さらにそれはパフォーマンスに発展する。また最小限の表現要素のミニマル・アートや考えそのものを作品とするコンセプチュアル・アート 映像のヴィデオ・ア

ート 屋外に巨大な制作物を作り出すラウンド・アート 写真を再現したような写実表現のフォト・リアリズムなども興っている。

1961年 53才 ローマのヴィラ・メジチ館にあるアカデミー・ド・フランスの館長に就任。館の改修と修復を開始し 展覧会を企画する。「サクランボの籠」制作。ソ連が世界初の有人宇宙飛行に成功し 搭乗者のガガリーンは「地球は青かった」と感想を述べる。東ドイツがベルリンに東西を分断する壁を作る。モ−リス・ルイス「近づいてくる」。

1962年 54才 パリで開催予定の「日本の古美術展」の作品選定のために日本に派遣される。この時に出田 節子と出会う。ニューヨークのピエール・マチス画廊で個展「バルテュス 油彩画 1929−1961」開催。「皿の中の果物」などを制作。ローマでフェデリコ・フェリ−ニなどと親交を深める。アメリカでキューバ危機おこる。
アンディ・ウォーホル「マリリン・モンロー」。

1963年 55才 ローマにて節子嬢をモデルにした「トルコ風の部屋」の制作を始める。アメリカのニューヨークとシカゴなどで展覧会が巡回される。アメリカ大統領 J・F・ケネディ 暗殺される。ロイ・リクテンスタイン「whaam」。

1964年 56才 1959年より描き始めていた「三姉妹」を完成させ 他の「三姉妹」を2点制作する。東京でアジア初のオリンピック大会が開催される。ヤーコブ・アガム「二重の変貌2」。

1965年 57才 制作は「トルコ風の部屋」のみを続ける。ヴェトナム戦争 ヴェトナムの共産化を阻止するためにアメリカが介入する。ル−カス・サマラス「椅子」。ヨーゼフ・ボイス「死んだ野うさぎに絵を説明する方法」。

1966年 58才 パリの装飾美術館で回顧展 その後ベルギーに巡回。シカゴのホーランド・ギャラリーにて「素描展」。ニューヨークのアルバート・ロエブ&クルージャー画廊で「ジャコメッティとバルテュス展」を開催。「トルコ風の部屋」を完成させ 次いで「トランプをする人々」の制作を開始する。親友であったジャコメッティ急逝 64才。
中国で文化大革命が始まる。
ジョ−ジ・シ−ガル「簡易食堂」。河原 温「日付け絵画 当日のシリーズ」。

1967年 59才 出田 節子と結婚。節子夫人をモデルにした「黒い鏡に向かう日本の女性」と「赤い卓と日本の女性」の制作を開始する。ニューヨークのピエール・マチス画廊で「トルコ風の部屋」「三姉妹」を発表。ビィラ・メジチ館の庭園の改修を始める。デイヴィッド・ホックニ−「大きな水しぶき」。

1968年 60才 ロンドンのテート・ギャラリーにて回顧展。節子夫人との最初の子である文夫 誕生する。「読書するカティア」の制作を開始。

第二章 P17-P18

社会主義国家であったチェコスロバキアで民主化が実現しようとするが ソ連の介入で阻止される。プラハの春。パリで学生達が高過ぎる防衛費に対する抗議行動を起こす。
マルセル・デュシャン死去81才。

1969年 61才 ヴィラ・メジチ館の職員の娘であるカティアとミカリ−ナ姉妹を撮影し 写真を制作に利用する。ディトロイトのドナルド・モリス画廊にて個展。「トランプをする人々」「黒い鏡に向かう日本の女性」「朱いテーブルの脇の日本の女性」「読書するカティア」の制作を続ける。母パラディーヌ パリにて死去 83才。
アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功し 人類が始めて月に立つ。
ヴィクトル・ヴァザルリ「ヴェガ・ペル」。

1970年 62才 ローマ近郊のモンテ・カルヴッェロに中世の古城を購入し修復をする。4月に息子の文夫 夭折。ジャコメッティ展をヴィラ・メジチ館で開催。
ロバ−ト・スミッソン「螺旋状の突堤」。パプロ・ピカソ「男 ギター 鳥女」。

1971年 63才 ローマのクロード・ベルナール画廊にて「素描と水彩展」を開催。ギルバート&ジョージ「歌う彫刻」。

1972年 64才 「トランプをする人達」「黒い鏡に向かう日本の女性」「朱いテーブルと日本の女性」「読書するカティア」の制作を続ける。ミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手がパレスチナ・ゲリラに襲撃される。ジャン・デュビュッフェ「4本の樹の群れ」。リチャード・エステス「バス・リフレクションズ」。

1973年 65才 長女である春美 誕生する。マルセイユのカンティに美術館にて個展。「トランプをする人々」完成。「横向きの裸婦」の制作を開始。
第4次中東戦争始まる。
パブロ・ピカソ死去91才。サム・フランシス「無題」。

1974年 66才 「トランプをする人達」「黒い鏡に向かう日本の女性」「朱いテーブルと日本の女性」「読書するカティア」の制作を続ける。
アンドレ・マルロー死去 77才。アメリカのニクソン大統領ウォーターゲート事件の責任をとって辞任。

1975年 67才 ヴィラ・メディチ館長の任を離れる。「起床」の制作を開始。 トム・ウェッセルマン「愛煙家」。

1976年 68才 「黒い鏡に向かう日本の女性」と「朱いテーブルと日本の女性」「読書するカティア」完成。
中国で毛沢東 死去。

*ロシニエールの時代1977-2001 69才-93才 制作作品数21点70年代後半からスイスのロシニエ−ルに転居する。晩年の時期で2001年の永眠まで24年間あるが作品は少ない。しかし晩年の代表作で それまでの集大成である「鏡猫」や立ち姿の裸婦などを制作し また珍し

い非現実的で難解な「鴉のいる大きな構成」も描いている。これらはバルテュスの画家としての到達点を示す重要な作品である。この時期の重要な作品「モンテ・カルヴッェロの風景 1」「画家とモデル」「スカーフを持つ裸婦」「鏡猫1」「鴉のいる大きな構成」「鏡猫3」。80年代の新たな表現としては 立体物を仮設的に扱うインスタレーションやコンピュータに画材として可能性を求めたコンピュータ・グラフィックスがあり 80年代後半では絵画の具象表現を復活させたニューペインティングが注目される。これ以後はインスタレ−ション コンピュ−タ・グラフィックス パフォーマンスなどが引き継がれ さらに平面や立体などの領域を越えて同時に扱う表現方法が行なわれ始め 共同制作によって互いに刺激しあうコラボレ−ションなども注目されていく。

1977年 69才 スイスのヴォ−州 ロシニエールにあるグラン・シャレを購入し 家族と共に転居。この館は18世紀に建てられたスイス最大の木造建築。ニューヨークのピエール・マチス画廊にて「油彩と素描展 1934−1977」カタログ序文はフェデリコ・フェリーニ。「横向きの裸婦」完成。「休息する裸婦」制作。「鏡猫1」の制作を開始。パリ国立近代美術館(ポンビドゥー・センター)が「キャシーの化粧」を購入。
アンドリュー・ワイエス「秋(春)分」。

1978年 70才 初めての本格的な画集が出版される。ジャン・レイマリー著 ジュネーブのスキラ書店より。「起床」完成。
レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャーズ「ジョルジュ・ポンピドゥ国立芸術文化センター」設計。

1979年 71才 「モンテ・カルヴッェロの風景」を制作。
スウェーデンで携帯電話が発明される。

1980年 72才 シカゴ現代美術館にて展覧会。ニューヨークのガートルード・スタイン画廊にて「素描展」。ヴェネツィア・ビエンナーレに油彩26点を出品。「鏡猫1」完成。「まどろむ裸婦」制作。「画家とモデル」の制作を開始。
社会主義国家のポーランドで連帯が 民主化のシンボルとなる。東ヨーロッパの国々でソ連からの自由化を求めて国民の不満が高まる。
クリスト「包囲された島々」。フランチェスコ・クレメンテ「2人の画家」。

1981年 73才 ロンドン ロイヤル・アカデミーの会員になる。「画家とモデル」完成後にポンピトゥ・センタ−が購入。「鏡を持つ裸婦」の制作を開始。ゲォ−ク・バゼリッツ「オレンジを食べる人」。

1982年 74才 イタリアのスポレート芸術祭にて「素描と水彩展」。チューリッヒ トーマス・アマナン・ファイン・アートにて「バルテュスとトゥオンブリー展」開催。「スカーフを持つ裸婦」完成。ニュ−ヨ−ク メトロポリタン美術館に「山 (夏)」が収蔵される。アルマン「長期駐車」。1983年 75才 パリのポンピドー・センターにて回顧展が開催される。「鏡を見る裸婦」完成。「静物」制作。「ギターと裸婦」「鴉のいる大きな構成」「眠る裸婦」の制作を開始。キ−ス・ヘリング「ニュ−ヨ−ク市の地下鉄のドロ−イング」。

第二章 P19-P20

1984年 76才 パリの回顧展はニューヨークのメトロポリタン美術館を巡回し その後 日本の京都市立美術館で開催される。日本では初めての展覧会でバルテュス人気高まる。スイス ローザンヌのアリス・バウリ画廊にて「バルテュス・ジャコメッティ・ボナール」展を開催。
ロバ−ト・メイプルソ−プ「背中」。ジャン=ミッシェル・バスキア「グリロ」。

1985年 77才 「ギターと裸婦」「鴉のいる大きな構成」「眠る裸婦」の制作を続ける。ゴルバチョフがソ連共産党書記長となり 改革(ペレストロイカ)に着手する。ヘルム−ト・ミッデンドルフ「火を持つ男」。

1986年 78才 「ギターと裸婦」「鴉のいる大きな構成」「眠る裸婦」完成。「鏡猫 2」の制作を開始。
ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起こる。
ヨーゼフ・ボイス逝去 65才。

1987年 79才 「鏡猫 2」の制作を続ける。

1988年 80才 「鏡猫 2」の制作を続ける。

1989年 81才 ローマのフランス文化センターにて展覧会。「鏡猫 2」完成。「鏡猫3」の制作を開始する。節子夫人が画家として東京で個展を開催 夫人と共に来日。初めての本格的な画集が出版される。ジャン・レイマリー著 ジュネーブのスキラ社刊行。
ドイツでベルリンの壁が崩壊 東ドイツはソ連の社会主義からの離脱する。

1990年 82才 アンドロス バージル&グランドリス財団付属近代美術館にて「素描・水彩・油彩展」を開催。ローマのヴィラ・メディチにて「ヴィラ・メディチのバルテュス展」開催。アメリカでコンピュータ・シュミレーションによる仮想現実(バーチュアル・リアリティ)が開発される。湾岸戦争始まる。パリにグラン・アルシェ(新凱旋門)建設される。

1991年 83才 第三回高松宮殿下世界文化賞を受賞 授賞式のため来日。当時パリ市長であったシラク氏(後のフランス大統領)も出席。ソ連の11にもおよぶ共和国が独立宣言し ソ連邦は消滅。アメリカに対抗できた超大国はここに滅び アメリカとソ連の冷戦状態も終る。

1992年 84才 フランス オルナンのギュスターブ・クールベ生家付属美術館にて作品展。尊敬するクールベの生家での開催について「獅子の背に止まる蠅のようなもの」と述べる。フェデリコ・フェリーニとジュリエッタ・マシ−ナ夫妻がグラン・シャレを訪問。フランシス・ベーコン逝去83才 1907年生まれ。

1993年 85才 ロ−ザンヌ州立美術館と東京ステーションギャラリーにて展覧会。「鏡猫 3」発表。
日本で2度目の展覧会。会場の赤れんがの壁面を気に入る。
ルーブル美術館の中庭にガラスのピラミッドが建造される。

1994年 86才 ベルン美術館にて展覧会。「鏡猫 3」手直しをして完成。「モンテ・カルヴッェロの風景2」の制作を開始。

1995年 87才 中国初の「バルテュス展」が巡回する。香港美術館 北京美術宮殿 台北美術館にて。

1996年 88才 マドリードのソフィア王妃記念アートセンターにて展覧会。

1997年 89才 ローマのアッカデーミア・ヴァレンティノにて展覧会。三枚の「鏡猫」を並べて展示。
日本のメルシャン軽井沢美術館で「バルテュスとジャコメッティ展」開催。

1998年 90才 ポーランドのブロツワフ美術アカデミーより名誉博士号授与される。初めてポーランドを訪問 父エリックが博士課程の研究をした同じ大学のアウラ・レポルディーナにて授賞式。バルテュス財団を設立 節子夫人が名誉会長となる。「モンテ・カルヴッェロの風景2」完成。「真夏の夜の夢」の制作を開始。

1999年 91才 ディジョン美術館にて展覧会。カタログ・レゾネがパリのガリマール社より刊行。監修ジャン・クレール。「モロッコの思い出−馬上の自画像」制作。

2000年 92才 ヴェネツィアのコッレール美術館にて「バルテュス アルベルトとディエゴ・ジャコメッティ アンリ・カルティエ=ブレッソン マルティ−ヌ・フランク展」開催。ロンドンのナショナル・ギャラリーの展覧会「邂逅−過去の芸術からうまれる新しい芸術−」にプッサンへの敬意を込めて「真夏の夜の夢」を出品。「マンドリンと若い娘 (期待)」の制作を開始。

2001年 93才の誕生日を迎える11日前の2月18日にスイス ロシニエールにて死去 92才。
「マンドリンと若い娘 (期待)」が未完成のまま遺作となる。節子夫人はこの死去について「夕日が沈むように息を引き取りました。」とのべる。9月にヴェネツィアのパラッツォ・グラッシにて大回顧展が開催される。同年8月 兄のピエール・クウォソフスキ− 死去 96才。
同年9月11日 アメリカで同時多発テロ発生。乗っ取られた旅客機の激突によってニユーヨークの世界貿易センタービル2棟が完全崩壊 死者約4000名にのぼり 他に国防省なども被害を受ける。その後アメリカはイラクに報復進撃し 独裁政権を壊滅させる。

2002年以降 
2003年 グラン・シャレに画廊が開設され バルテュス財団の企画によって「若き日のバルテュス展」開催。
2004年 グラン・シャレの画廊で「アンリ・カルティエ=ブレッソンとマルティ−ヌ・フランクによる写真展−バルテュスの家で」開催。グラン・シャレ建造250周年記念としてバルテュスにちなんだ「猫の王国コンク−ル」開催。
2005年 グラン・シャレの画廊にて「バルテュスの素描展」開催。節子夫人の「節子の暮らし・和の心」展が日本で開催される。
2008年 生誕100年を記念してスイスで大回顧展を開催し この後各地を巡回する予定。  

第三章 P21-22

以上が大まかだがバルテュスの略歴と時代である。これらからバルテュスと時代との関係の幾つかが明らかになる。まず大きな戦争を2度も体験していながら *戦争を描く事をしなかった。特に第二次世界大戦では30代の出来事であり 自らも出兵し負傷している。それにバルテュスの知性からして 社会への発言や行動をとる事もできたろうに。しかしそれは戦争の愚かさを見抜き 一切を無視していたと言われている事を裏付けている。しかしこの頃の作品には ある種の暗さと緊張感が漂っているように思われるが これらはやはり避けがたい戦争などの社会状況が 反映しているからだろう。それに幼い頃に起きた父親の祖国の消滅と度重なる転居を体験しているし また父親との別居 その後の母と息子の関係 さらに自身の恋愛と苦しみ 結婚生活などもある。これらも具体的に描かれる事はなかった。これは明かにその時々の時代と自らの事を作品に持ち込まないようにしていたからだろう。これは多くの画家の持つ一つの特徴でもあるが バルテュスにおいてもそれは強固な作品制作における意図であり 基本的な立脚点である。しかし先のような私事とされた事柄も もしかしたら分かりにくい形で作品に反映されているかも知れない。バルテュスの作品は香り高く甘味な面も持つが 時に暗く厳しく 反発心や不信を底に秘めていると思われる作品もあるのだから。
1900年中頃までに起きた絵画表現の変革は それまでの写実表現に具象表現と抽象表現を加えた。そしてその後の1950年代以後にはさらに新たな表現方法が生まれている。これらの展開は大きな進展であり 表現方法の創出でもあった。しかしその主な傾向は絵画の描く対象を 人々の居る現実から離脱させ 形や色彩などによる表現の可能性を追求する事のみに 労を費やしたとも言える。またそれらはそれまでに行なわれた表現様式を否定する事で成立するといった面もあった。このような表現方法の創造の世紀にあって バルテュスも写実表現から具象表現へと移行しているが あくまでも描く対象は現実を基とした人や自然であった。これが絵画表現の変革の流れと異なるバルテュスのもう一つの重要な立脚点である。しかもそこに描かれた現実は現在という時間だけが示す世界だけではなく 過去を引き継いだ時の累積としての現実であり 描かれた人や風景もこの累積の中にある。もちろん他にも現実や人間と自然について描いた画家や主義もあるが 人の内面の奥に張りめぐらされた神経の微妙な襞を感じさせる点において バルテュスは他と一線を画しいる。そしてもう一方で自らの審美世界に耽溺する事なく美と醜を扱いながら 絵画の基本要素である形や色彩による構成を独自に試み 具象表現の可能性と限界も追求していた事も確かである。さらにバルテュスの表現は主題は厳選されていたが 表現様式は固定化されておらず 写実表現から具象表現への移行のみならず 重厚な乾筆の重ね塗りや色彩の鮮やかな薄塗りまで様々である。これもバルテュスの立脚点とも言えるだろう。 
つまりこの略歴と時代によって明かになるのは1900年代は様々な大きな出来事が起こり 表現方法の変革と創造の世紀であった。バルテュスはそのような時代の中にあって 自らの審美眼と独学によって絵画の魅力を追求したのである。そしてそのための重要な立脚点があり 一つは移り行く時代の変化を取り入れず 自らの事も私事として遠ざける態度である。もう一つは様々な表現が人の居る現実を描かなくなる中で あくまでも描く対象を現実とし その現実を時の累積した世界とし そこに在る人と自然を描こうとした事である。また表現様式の非固定化は 自らの様式を模倣する事を避けるためと思われる。これらはバルテュスが物事の本質と普遍性を得るために定めた重要な始点であるはずだ。
晩年のバルテュスは自らを伝統主義者であると言っているが *これは過去の絵画表現を否定する事によって起こる断絶ではなく むしろ過去の様々な絵画表現についての考察を継承し それを生かして より高い次元に至る道をさぐるべきだと考えていたからだろう。

*モロッコで兵役についていた頃を描いた作品があるが これは戦争そのものではなく 青春の思い出に近い。また第二次世界大戦中に描いた「犠牲者」と題する作品もあるが これも戦争と言うよりも死を主題にしていると思われる。
*カール・マルクス「意識の改革とは過去と未来との断絶と言った問題ではなく むしろ過去の諸思想を完成させると言う問題である。」この言葉の引用は0?0氏によって行なわれている。

第3章 作品解説

作品を解説する事は それらの理解を深め 制作者の考えを推し量ってみる事である。しかし気を付けねばならない事は見当違いや深読みのし過ぎである。これが解説の難しい所だが バルテュスの作品には見当はつくが核心が曖昧であるとか 深読みを誘いがちな特徴がある。作品は作者の考えや表現技術以上に 何かを成立させてしまう事もあるし 特に氏の作品は作者の意図がどこまで及んでいるのか 計り知れない所がある。しかしそれも表現者と作品の力量であり 容易な事でそのような広がりを持てるものではないだろう。また氏の作品の傾向は時期によって描法や作風が変化しており ここで重要なのは幼年期は最初の才能の発芽が見られ 初期はその芽の成長と本格的な制作の準備段階として重要であり 青年期はすでにそれまでに貯えた糧で花を咲かせている。そして大戦中とその後ではそれらを引き継き シャシーの時代では新たな展開を見せている。さらに壮年期のローマ時代では要職を兼任しながら作品内容を充実させ 晩年のロシニエールの時代では最終的な高みへ至り 大きな結実を見せている。

この章では一点づつの魅力を充分に味わいながら 各時期の特徴と全体の進展の様子も読み取り バルテュスの世界の全体像を理解していただきたいと思う。

第三章 P27-28

27-28
P4。「若い人の上半身」F4号程度 厚紙に油彩 1923
人物画の習作である。軽い下書きの上に荒い筆跡を残しながら形を描き 立体感を色彩の明暗の違いで描こうとしているようだ。バルテュスの作品には眠る人が良く描かれるが すでにこの時点で描かれている。

P5。「若い男の肖像」41×32.5cm F6号程度 キャンバスに油彩 1923
15才で描いた肖像画である。輪郭線で形を描き 斜めに揃えた筆後で面を塗っている。写実表現描法でなければ外形線も用いても筆後を残しても良いのだが まだ絵具の置き方や重ね塗りの仕上りを模索している段階のようだ。しかしすでに立体感を出すために顔の左側に照り返しが描かれている。少なくともバルテュスがこの頃に会得したいと思っていた描き方は写実表現描法でないようだ。

P6。「祭壇画」キャンバスに油彩 1923
この作品は展示された様子の写真しか残っていない。聖母子像と他に人物が二人描かれているように見える。