第三章 P87

87
P87。「山 (夏休み)の習作」 60×73㎝ F20号程度 キャンバスに油彩 1935
これはP102の「山 (夏)」の習作である。「山 (夏)」は1937年作だから その2年前に描かれている事になる。この風景はベアーテンベルグのスイスの風景で それを描いた水彩画をもとにして描いたと氏は述べている。大きくうねった起伏を見せる岩山とその岩肌 その間から遠くの険しく尖った青い山々が見える。そして手前の草の茂った穏やかな平地には 大きな平たい岩の横で杖を持った女性が眠っているように横になっている。習作でなくても良いようだが「山 (夏)」と比べるとこの習作の方は部分に見える。この習作を部分とし 本制作を全体として見比べると何が加味され どのように展開し 何を目指したのかが良く分かる。大海原の大波のようにうねる岩山を背景にして この娘はどんな夢を見ているのだろう。

第三章 P93-P95

93-95
P93。「子供の肖像」39×33㎝ F6号程度 キャンバスに油彩 制作年不明
子供の肖像画とされているが 白っぽい色の重ね塗りで形や表情がはっきりしていない。それでも習作とされていない。氏の作品は全部で350点くらいだが このような作品も含まれている。それに未完成作もかなりある。このページの3点もそうだが 前ページの「ロジェと息子」も未完成である。これらは最後まで描き込まれていないが 表現として成立しているとの判断で筆を置いている。人物の場合は顔を中心として 内面が描ければそれで良しとしている場合も多い。このような作品の完成に関する見極めが変わってきたのはやはり近代からであり 印象派以後の具象表現描法からではないだろうか。それにしてもこの「子供の肖像」は印象を描きとどめただけという点で言えば印象派的とも言える。

P95。「テレ−ズの肖像」71×62㎝ F20号程度 キャンバスに油彩 1936
テレ−ズのみを描いた作品で 幼さの残る若い娘を主題として描いた最初の作品である。大きな襟が印象的で表情が目立たないようだが ここにはテレ−ズの頑さが描かれている。それは描かれる事に慣れていない緊張から生じているのだろうが 彼女の頑さは自分自身を画家の視線から守るためだろう。ここには初々しい頑さが示す拒否がある。

第三章 P121-P122

121-122
P121。「長椅子の上のテレ−ズ」 71×91.5㎝ F30号 キャンバスに油彩 1939
B氏は良く「ポーズの画家」と呼ばれるが 身体の作り出す形態に関するこだわりは強く 様々な姿態を求めたが その結果幾つかの定番に落ち着く。P112 の「夢見るテレ−ズ」の姿勢は一つの完璧さを持ち 片膝を立てるポーズはB氏の一つの定番である。この「夢見るテレーズ」と同じ長椅子の上でポーズを取るテレーズにも 人体の作り出す姿勢の可能性を求めているようだ。絵画にとって人物がどのような姿勢や身振りを見せるかは重要な問題であり これまでも様々なポーズが描かれてきた。動勢感の強いポーズ 寡黙なポーズ 官能的なポーズ 歪んだポーズ 自然なポーズ 非自然なポーズなど。しかし具象表現(デフォルメ表現)の台頭に伴って人体が作り出す姿勢への追求は現実の人体から離れていく。この作品でB氏が成立させたこの姿勢は現実の人体が作りだせる姿勢であり その均衡と構成は見応えがある。片手を高く上げて糸のようなものを垂らし もう片方の腕を床につけてその上体を支えている。頭は下がりぎみで物憂げに下がっている糸を見ているが 片膝を立てているのでスカートはずれて両足の付け根まで露になっている。まるで長椅子の上で舞っているようだ。しかし言い付けられた姿勢を取りながら 退屈を紛らわしているようでもある。この姿勢は確かに構成的で均衡を持っているから 人体が作り出す美の一つだろう。しかしこれは構成のために作られた姿勢である。身体の使い方が大きいわりに衣服は日常のものだから動きに合わせて肌は露出し そこに官能性が生まれる。ここには人体による構成の追求に衣服の乱れから生じる官能性が味付けされている。描き方としては形のまとめ方が的確で 写実表現を適度に要約しているおかげで見やすく 身体のシワなどが作る抽象性の取り入れ方も上手い。
しかしこれ以後はこのような現実的で完全な均衡を持つ姿勢は描かれなくなる。そのかわりに非自然的な変形が加えられた人体を描くようになっていく。それは現実の制約内で作りえる姿勢に物足りなくなったからかも知れない。

P122。「ある室内の3人の人物」 F15号程度 1939
この作品は小さく本制作のための試し描きのようだが習作とはされていない。
室内には3人の人物が描かれていて 1人は窓辺に立つ男性 もう1人は左端の椅子に座っている描きかけの人物 そして中央下の「長椅子の上のテレーズ」と同じ姿勢の人物。つまりこの作品は「長椅子の上のテレーズ」を室内画に使うための創案である。「長椅子の上のテレーズ」のポーズを室内画に生かそうと考えたのだろう。しかし室内画はそれぞれが組み合わさる事で一つの世界を作りだすが 「長椅子の上のテレーズ」の姿勢はそれ自体で完結していて 他との関係を持ちえなかった。それゆえにこの創案は本制作に至らなかったと考えられる。

第三章 P141

141
P141。「眠り込んだ若い女」 82×100㎝ F40号 木版に油彩 1943
寝台の上で枕を上半身に敷いて眠り込んだ女性は やや胸元が開いているが腰には毛布をかけている。「客間」にも描かれた眠る人をここでは単一で描いている。そのしどけない寝姿は無防備だ。光は胸元を照らし 顔には影を作っている。くすんだ朱色の上着の衿が少しめくれていて その下の白い肌着はゆるい。この顔よりも開けられた胸元を明るく照らす光とゆるい肌着は官能的だ。しかし影になった顔はやや寝苦しそうである。寝乱れてはだけた胸元は官能的だが 本人は夢の中で嘖まれているのかも知れない。外見の官能性と眠りの中の夢は別で ここにはそれらが共存している。

第三章   P310-P311

310

第三章   P330

330

「中世の時代に溯る。絵画の存在感」

P330。「トランプをする人達」 190×225㎝ F150号程度 1966-1973
久しぶりにトランプをする人々を描いた作品である。そしてこれはトランプを扱った最後の作品でもある。この作品を描き始めたのは 1966年で 完成したのは1973年であるから 7 年も要している事になるが それはローマ滞在中の公務を優先していたからで この時代の作品は他も同じように時間がかかっている。構図は P200の「トランプの勝負」とほとんど同じだが 大きな違いは左右の人物が反対になっている事で 右側に切り札のカードを差し出す女性が配置され 左側に椅子に足をかけて机の上に身を乗り出し勝負の行方に戸惑っている男性が描かれている。男性の背に回していた腕は前に移動し 胸の前で強く握られている。そして二人の顔はこちらに向けられ より単純化されている。他の違いは机の上に敷かれた布があり それが市松模様である事と机の手前に椅子が一脚置かれている点である。それから二人の服装は より時代離れしているように見える。また P200の「トランプの勝負」では光の効果によって敗者と勝者を明らかにしていたが ここではその効果は用いられていないので 二人の勝負の行方は説明されていない。この作品の注目すべき点は人物の顔の作りである。眉と目の間隔はなく 鼻梁とあわせるとT字型になっていて かなり図的である。そこには男女の区別はなく 雌雄同体に見える。男女の違いは髪形と衣服によって描き分けられている。この独創的で中世の時代を思い起こさせる顔は P311の「水浴をする人」を思い出させ  P221の「部屋」まで遡る事もできる。この図的な顔は やはり美と醜の関係を抜きに考える事は出来ない。様々な表現は常に美と言う大儀に収束されて語られるし 醜は美によって排除される悪であると捉えられている。しかしありきたりな美は現実性を失いやすく 醜は現実を引きづり過ぎる。この加減にバルテュスは果敢にも挑んでいる。そこでは醜を滑稽なものと転換しながら その滑稽さに潜む奇妙と言う解釈不能の魅力を発見している。これは P221の「部屋」ですでに獲得されていたし 「部屋」以前にも描かれている。つまりバルテュスの審美眼の複雑さと特徴はここにある。またバルテュスの作品の幅の広さは この美と醜の間の移動でもある。 
色彩は全体に渋い色調に押さえられて古色めいている。絵具の質感による重厚さは復活し その画肌は充実している。この画肌で重要なのは 二人の人物の背後に施された塗り方である。これは作品に重みと厚みを与えているが それだけでなく まるで風雨に晒された外壁の持つ時間の蓄積をも感じさせる。そしてこれは絵画作品のみではなくヴィラ・メジチの壁面を改修する時に使われた独自な手法でもある。これはバルテュス壁と呼ばれローマ近郊のモンテ・カルヴッェロの古城の修繕にも使われているし ローマのフランス大使館とバチカンのフランス大使館もこの手法を用いて改修されている。
全体の構成は堅牢で 青年期の構成に見られた潔癖さに通じるものであり それはトランプの勝敗を超えて二人の関係にある緊張感を利用した構成というより 構築された世界としてみる事ができる。しかしこの作品は一度 完成した後で手直しをされている。手直しが入った場所は細部で 男性の上着の切り込み 机の上の器 女性の衣服が長袖になる テーブルの市松模様の入れ方などである。この細部の削除と変更によって画面全体はより明確になり 時間を超えた中世的な雰囲気の中に合理性を与えている。この修正は作品により一層の完成度をもたらした。それはまるで堂々と時間の流れの中に建ち続ける建造物のように構築されている。

*美と醜 「醜の美学」カール・ローゼンクランツ著 1853年刊行の古典的な大著であり そこには「芸術は醜を滑稽に転化させる事で 美の普遍的な法則に従わせ 醜は喜劇として転用される」とある。

第三章   P331

331

「異国の様式に則る」

P331。「黒い鏡に向かう日本の女性」 157×195.5㎝ キャンバスにカゼインテンペラ 1967-1976
この作品は P329の「トルコ風の部屋」と同じく節子夫人を描きながら 日本の古典絵画の様式に見立てられている。その様式の主なものは遠近法で 日本の絵画では平安時代を代表する源氏物語絵巻から江戸時代の浮世絵まで平行透視図法が用いられていたので この2点の作品もその様式を使っている。また室内や家具も日本風になっている。黒い長持ち 漆塗りの黒い鏡 床の敷物の模様 帯の付け方と着物 髪形 女性の体つきまで日本風で その姿勢は床に腰をついて生活する国の人ならはである。半裸の女性は真横から描かれ 手と膝を床について黒い鏡に手を伸ばしている。自らの姿を映すために鏡の蓋を取ろうとしているのだろう。日本では鏡には蓋がされていて 使う時だけ蓋を取る。これは鏡が金属の表面を磨いた表面鏡だったからで 湿気で表面が錆びる事を防ぐ目的があったからである。しかしそうではなく鏡が黒いのは暗闇を映しているからかも知れない。その黒い鏡に手を伸ばした姿態は腕から腰にかけての流れるような曲線を作り その曲線はたおやかで優しい美しさを持っている。またその横顔は思慮深く 控えめな気品を見せている。
平行透視図法の平行な斜めの線と床の敷物の模様も裸体のたおやかな曲線と相まって 古式に則ったゆったりとした時間を感じさせる。ここでは流れる時間もたおやかなのである。バルテュスは幼い頃から中国や日本などの東洋美術に強い関心を持ち 造詣も深かった。中国の古典的な画家の言葉に宇宙感を学び 西欧絵画の技法に固執する事なく その表現方法から多くを得ている。そして新しき得難い伴侶である節子夫人の育った国が日本であれば 自分の作品をその異国の世界で展開させてみようと考える事は大胆だが自然だろう。しかも日本の古典絵画の様式に則って描く事は単に異文化を取り入れるではなく 自らがその世界に出向いている訳で これはバルテュスの謙虚な文化に対する礼儀の示し方と考えられる。この作品はテンペラを使っているが それも日本の絵画の様式に習っての事で テンペラ絵具は絵具の粉末(顔料)を水または乾性油を加えて練り 更に生卵の黄身を接着剤として用いる彩色用画材であるから 仕上りは油彩のような艶はない。しかし日本の伝統絵画は顔料に膠を用いる。また彩度の低い色は日本の風土に合わせるためだろう。絵具とは元来 その土地の風土を反映しているものだからである。
この作品は P329の「トルコ風の部屋」で描いた西と東の文化の混在から一歩踏み出して 日本と言う国に出向き その様式と風土を理解しようとした作品である。また日本風に置き変えられた身支度をする娘である。

第三章   P332

332
P332。「赤い卓と日本の女性」 145×192㎝ キャンバスにカゼインテンペラ 1967-1976
この作品も日本風として朱色の卓や衝立てなどの調度品をしつらえ 床の上の姿勢を描いている。先の作品と同じく平行透視図法を使い 立体感の表現も最小限にされ光と影の効果も使われていない。またこの半裸の女性も腰に細い帯を結び 着物は腰だけを被っている。そして P329の「トル古風の部屋」と同じく頭に白い帯を巻いている。室内には衝立てと敷物 そして鮮やかな*朱色の小さな卓には花をいけた花瓶と茶器が置かれている。奥の襖は開いているようだ。
この作品で印象的なのは女性の姿勢と正面性を持った顔で その首の突き出し方と肩と腕のひねり具合は不自然で 衝立てに近付けられた顔の位置も意図がよく分からない。バルテュスの作品では このよく分からない点が味わい深いのだが 例えばこの衝立てに近づいている顔は 衝立てに張られた絵や歌を読んでいるのかも知れない。日本の衝立てにこのような事はよく行なわれ 一種の知的な装飾としている。恋人を待つ娘は待つ間に耐えられず ふと衝立てに張られた手紙を読み 心慰めているののではないだろうか。
この作品も先の作品と同じく日本を描こうとし 日本絵画の様式に則っているが 先の作品よりも本作は空間性の表現に苦慮しているように見える。それは完全な平面化が行なわれていないからであり 人物の背後の空間と襖の奥を暗くして奥行を与えているが これは完全に平面化された日本絵画に見慣れた人からすれば 中途半端に見えるだろう。しかし完全な平面化では表現しきれないものを感じたからこそ この背後の奥行は描かれていると考えられる。つまりこの暗さは彼女の心の様子を表しているのであり 絵画的な説明だとすれば納得もできるだろう。完全な平面化を特徴とする日本絵画は ある種の抽象性を獲得しているが ここではその抽象性では表現できない必要性を感じたのだろう。つまり完全な平面化では表現できない心の機微を この暗くされた奥行は表していると考えられる。  
愛する伴侶の国であり それ以前から敬愛する日本の文化 その敬愛の念は日本の絵画世界を自らの作品に取り入れるのではなく その様式に則って描かせるほど強いものであるが この作品では計らずも東西の絵画表現の違いを露呈する事になっている。

* この朱色の卓は本来は個人用の食卓であるお膳だろう。

第三章   P333

333

「絵画へと昇華された性の露呈。」

P333。「本を読むカティア」 179×211㎝ F150号程度 キャンバスにカゼインテンペラ 1968-1976
片膝を立てて椅子に座る若い娘の姿は P112の「夢見るテレーズ」を思い起こさせる。しかしここにはあのような顔をそむけて眼をつぶり 性を露呈させ その横で猫のミルクを飲む音が聞こえるというようなあからさまはない。姿勢は同じでも横向きにされ 本を読む姿に変更されている。また人物と椅子以外は壁と床だけで 猫もいない。しかし片膝を立て陽光に晒されている事にはかわりがない。また本を読んでいるようだが 光の方向からすれば文字面は影になり 影の中にある顔と横目使いは意味ありげである。
だが全体には落着きと熟成が見られる。これは姿勢を横向きに変えた事と画肌と色彩のもたらす充実感によるものだろう。そしてこの作品は 挑発的な性の露呈や日常の純粋性を描いた作品の集大成であり 融合だろうか。また先に描かれた日本の古典絵画の様式の特徴である奥行を与えずに 人物を横向きに描く手法はから見て 異国の様式の昇華でもあるはずだ。つまり日常の純粋性の中に 微かな官能性を残しつつ 新たな様式を取り入れる事で 性の露呈よりも一回り大きな世界を展開して得たと言える。
人物の後に広がる壁面はあのバルテュス壁で この重厚な渋い輝きはやはり見応えがある。また出入り口を塗りつぶした跡のような左側の壁と そこから突き出た壁の一部は どこか謎めいているように見る事もできる。それによって壁全体に変化を持たせながら 右側のカティアと釣り合っている。そして人物と椅子は 適度な具象化がなされており 人物の簡略された立体感による丸みや平面化 椅子の背もたれの切れのある曲線と裾の襞のまとめ方の巧みさ そしてスカートと白い布の皺は粗と密の関係にある。床も壁のように簡素だが潔く 床の上にあるもの全てを充分に支えられるように 茶系統の色彩に赤色が加えられている。これらは充分な重ね塗りで描かれており 背景のバルテュス壁と相性がよく 画面全体を充実した画肌の統一感で満たされている。重厚にして簡潔 画肌と色彩の輝き 日常の純粋性と存在感 そして官能性 また具象表現としての形 これらがもたらす充実感こそが 氏の熟成である。
この熟成には 娘の姿勢と光の方向による微かな官能の芳醇さが放つ香りが残っているが そこにはカティアの横目使いの堅い表情が香辛料として混濁している。これによって放香はより複雑な芳醇になっている。そしてこの香りは陽光と供に 画肌と色彩による画面全体に染み渡っているようだ。

第三章   P334

334

「善なる光に包まれる」

P334「横顔の裸婦」 225×200㎝ S150号程度 キャンバスに油彩 1973-1977
立ち姿の裸婦はこれまでに約15点ほど描かれている。1933年に描かれた P71の「鏡の中のアリス」に始まりP169の「部屋」1947-1948年の身支度をする娘を描いた P169の「部屋」 そして 1949から 1950年の P187から P190の「裸婦」の 5点 さらにシャスイ時代の P281の「椅子と裸婦」や P282の「身支度」など。これらの立ち姿の裸婦は このローマ時代にまた描かれる。しかも先の作品と同じバルテュス壁を使って描かれる。またこの作品も潔いほど余計なものを排して 立ち姿の裸体と壁 そして僅かに画面端に描かれた洗面用の器と布のかかった細いテーブルだけである。立ち姿の娘は幼さの残った身体を横向きにして布を両手で持って立っている。後ろの壁はわずかに曲面を描いていて その壁は重厚で黄茶色だが ごく落ち着いており 裸体の娘のためにある。陽光は右側の画面外にある窓から差し込んでいるが 室内と裸体もその陽光以上にしなやかに輝いている。まるで自ら光を放っているかのようだ。光は満たされている。彼女は窓辺に置かれた器の水で身体を洗っているのか。両手に黄色がかった布を持ち 裸の足を半歩前に出して陽光に向かっている。その姿には気品があり まるで光の中で生まれたようだ。この姿勢には特別な形はいっさい与えられておらず 更に謎めいたものさえない。必要なものも最小限で あれだけ描き加えてきた模様や柄もまったくなく 家具や器が複雑に配置される事もない。あるのは陽光とそれに包まれながら 自ら光を放つ幼さの残った娘の裸体だけである。若い娘達は実際に身体から光を放つ時期がある。そのような光は P224の「横顔のコレット」に描かれた。そしてここではその光は黄金色に昇華され もはやその光は陽光でさえなくなり 発光体としてして部屋全体に及んでいる。これは寡黙な讃美である。身支度をする娘達や立ち姿の裸体の全てがここに集約し 賛美されている。ここには一つの事象が描かれていると言うよりも それを含む世界が獲得されている。
ここには祝福されるべき美がある。この裸体は初々しく また神々しい。ここには善なる光が満ちている。これはバルテュスが過去の様々な試みと苦労の末に到達した境地によって描かれていると思う。今までにもこれと同じ境地を得て描いた作品もある。しかしこれほどであったろうか。バルテュスの場合 考えや技法は経験として集約され より高みある次元へと至る。この立ち姿の裸婦も偉大な一つの到達地点を示しているが それはこの一点だけでなく 他にもう2点描かれている。P334

第三章   P335

335

「造形の魅力は均衡と不均衡の狭間に置かれる」

P335「休息する裸婦」 200×150㎝ F130号程度 キャンバスに油彩 1977
この作品が描かれた 1977年はローマ滞在の最後の年であり 1961年から約16年間も続いたローマ滞在期の最後の作品でもある。先の「横顔の裸婦」と比べると姿勢への関心が戻っており 絵の見せ場はこの形にある。椅子に座る若い娘の裸体はゆったりとしたS字を作り 両手は左右に広げられ 顔は極端に横に向けられている。そして片足は力を抜いて伸ばされ もう片足は折り曲げられている。この両腕の左右対称と身体が作る S 字型の曲線 そして左右非対称の両足。これらは造形的な魅力に溢れていて見飽きる事がない。裸体は光と影によって立体感を与えているが その明と暗の均衡も変化に富んでいる。またその明と暗によって描き出された裸体の丸みも魅力的であ。背もたれの丸い椅子は P333の「本を読むカティア」で描かれたものと同じであるが 右端の肘掛けはやや右に広げられて右側の手と上手く関連づけられている。全体の配置は裸婦と椅子がやや左上にあるので 伸ばされた足の下は空いている。左下には足乗せ台のようなものが描きかけのまま残され 右側の壁には扉のようなものが描かれているが やはり椅子と裸婦の配置が上にあり過ぎるようだ。それはもっと描き足すためであったのだろうが 裸婦と椅子のみの完成に終ってしまったのだろう。それでも裸婦と椅子の造形的な魅力は充分で 特に裸体の明暗による非対称な立体感とその造形は抽象的でもある。この裸体には造形的な魅力と同時に 若い肉体の持つ柔らかで張りのある肌と その暖かみも感じられる。つまり造形的な魅力と生身の肉体が醸し出す官能性が共存している。しかしこの造形の写実性には手が加えられており 僅かに不均衡である。それは横向きの顔 乳房の位置 両手の長さなどであるが それらは一種の味付けになっている。バルテュスの場合 この作品でもそうだが 造形の完全な均衡を崩す事で生じる不均衡は美と醜の狭間にあるようで 一種の危うさが感じられるが それはここでも魅力となっている。

第三章   P336

336
ロシニエール時代 1977-2001 69才-93才 P336−P353 17点+4点=21点 計356点

スイスのロシニエ−ルに転居。晩年の時期で2001年の永眠まで24年間あるが作品は少ない。しかし晩年の代表作で それまでの集大成である「鏡猫1,2,3 」や立ち姿の裸婦などを描いている。他に風景画 眠る人 室内画 また珍しい非現実的で難解な作品も描いている。これらはバルテュスの画家としての到達点を示す最も重要な作品である。他に「モンテ・カルヴェッロの風景」「画家とモデル」「スカーフを持つ裸婦」など。さらにレゾネに掲載されていない「眠るオダリクス」「モロッコの思い出−馬上の自画像」「真夏の夜の夢」 そして遺作となった「マンドリンと若い娘 (期待)」の4点を加えると計 21点。

「ささやかな共感」

P336「起床」 169×159.5㎝ S100号程度 キャンバスに油彩 1975-1978
ローマ滞在中から描かれていた作品でロシニエ−ルで完成される。寝台の上の裸婦は幼く 手に鳥のおもちゃを持ち 籠から出た猫がそれを見ている。色彩は灰色がかったくすんだ土色系が使われ 線描はわずかな細部に使われているのみで 娘の黒い眼と猫の瞳と耳 そして青い鳥に入れられた赤い線である。その赤い線は鳥が細かく震え または羽ばたきようにも見える。この赤い線は青い鳥を主役として際立たせ 娘と猫の視線を集めている。娘は鳥を猫に見せ 猫は小さく鳴いてそれに答え 見上げている。娘はその猫の反応を見て微笑んでいる。お気に入りのおもちゃに反応する猫は そのおもちゃを娘と供に楽しむ事であり ささやかな共感が生まれている。それは猫をからかう娘の悪戯心であっても同じだ。このような娘と猫のやりとりは微笑ましい。しかしこのやりとりの中で娘が裸体である事は この微笑ましさに肌の暖かさとその肌の微かな匂いを秘めながら 漂わせているようだ。
寝台の上の裸婦と猫という画題は P156の「若い娘と猫」にあるが これは30年前の1945年に描かれている。また同じ頃に描かれた P155の「美しき日々」は長椅子の上の娘が手鏡を持っている。そして寝台の上の裸婦が手鏡を持っている作品は1963年から 1966年に描かれた P329の「トルコ風の部屋」である。この間に寝台の上の裸婦と猫を描いた作品はない。このように長い期間が開いているにも関わらず これらは晩年の傑作である「鏡猫」に深く関係している。

第三章   P337

337

「黄泉の地のような幽玄な世界」

P337「モンテ・カルヴェッロの風景」 130×162㎝ F100号 キャンバスにカゼインテンペラ 1979
モンテ・カルヴェッロにはバルテュス夫妻がイタリア滞在中の 1970年に購入した中世の城がある。夫妻の終の住処とするつもりであったが 気候がバルテュスの身体に合わず長く住む事はなかった。しかしここには節子夫人との間に出来た最初の子で 幼くして亡くなった文男(1968-1970)が眠っている。
この鳥瞰によって眺められた風景は雄大で幽玄である。まさに現実から遊離しようとしているようだ。手前の近景以外は白い靄が薄くかかっている。左側の小高い山の下にある白い岩肌は 造形的に複雑で妙味がある。また右側の遥か向うに広がる大地は遠近感を失うほど広大だ。そして左上の山頂にある忘れられた遺跡のような建物は この地と関わって来た人間が成してきた行いを痕跡として思い忍ばせる。手前の近景には靄はかかっておらず 白茶けて樹木も痩せ細った荒涼とした斜面が広がっている。そして石積みの高台に男女の二人がこの景色を眺めている。
このような幽玄な風景を描くバルテュスの心境とはいかなるものなのだろう。現実の中の不可思議な領域にも関心を持つバルテュスはこの風景に何を見ているのだろう。この風景は実際にアトリエから見える風景であるが 別方向を向くテラスからも広々とした景色が眺められるし日当たりもよい。それにもかかわらず この場所を選んでいる。確かにこの場所はありきたりの風景ではない。実際の風景と比べるとこの作品が見せる世界との差を強く感じる。その差こそ現実と創造の違いであり バルテュスが現実から創造へと飛躍した距離である。ここに見られる幽玄な風景は 風景ではなく一つの世界となっているが 山頂に残された廃虚 骨のように白い岩肌とその特異な形 そして荒涼とした前景 さらにその風景を眺める二人の人物。この絵には絵画としての表現とは 別な何かへの思いが込められているように思える。
そう思えるのは この地が節子夫人との間にできた最初の子が永眠している場所である事と関係しているのではないだろうか。幼くして亡くなった息子の死を悼む鎮魂の念 白く幽玄な風景は彼方に広がる黄泉の地 荒涼とした手前の斜面は現世 右下の二人の男女はバルテュス夫妻。しかしこれはやや文学的でつじつまが合い過ぎるし またバルテュス夫妻の個人的な領域に入り過ぎているかもしれない。
別な解釈を行なえば バルテュスは現実に立脚する人であり この幽玄な世界は実際に靄が作り出した幻想的風を元に東洋絵画の手法を実践したのかも知れない。それはこのような幽玄な風景観は東洋的であり ここに見られる造形も水墨画などの古典に見られる現実の姿や形に捕らわれず 自在に作り出しながら その真髄に迫り 表現としての妙味を与えるというやり方に一致するからである。
しかしともかくこの作品では実際の風景と表現の差こそ バルテュスの創造という飛躍の力を示す作品である事は間違いない。

第三章   P338

338

「秘められた園の中の関係」

P338「鏡猫 1」 180×170㎝ S120号程度 キャンバスにカゼインテンペラ 1977-1980
「鏡猫」は3点描かれていて 晩年の代表作であるが 若い娘を描いた作品のほとんど全ての集大成的な作品であり 身支度をする娘達の最終到達点を示す作品でもある。しかしこの作品はその始まりである。寝台の上の幼さの残る娘は裸体で手鏡を持ち 寝台の端の椅子から覗く猫に その手鏡を向けている。猫は鏡に映る自分の姿に戸惑い その反応を見ている娘は微笑んでいる。ちょっと意地悪そうでもあるその微笑みはほくそ笑みで 密かな企みが思い通りになったからだろう。しかしそのような無邪気な企みを行なう娘こそ微笑ましい。
ここでも娘は裸体であるが 猫に向けられる前の鏡は自分を写していたはずで 右手には櫛を持っているから髪を梳していたのだろう。つまり裸体のまま身支度をしていた訳で 鏡に映った自分の姿に見ていたろうし 見とれてもいたろう。ここに女性の自己愛(ナルシズム)が見られる。女性が化粧をし着飾り 美しくあろうとする主な目的は異性を前提にしているのではなく 自分のためである。自己愛は自己完結する円であり 身支度をする事はその円の中にいる事である。そしてこのような女性の自己完結する個人的な世界は秘められた園となる。ここではその秘められた園の入口の扉がわずかに開かれ その内状を伺い知る事ができるようになっている。その秘められた園の中の彼女は不自然な姿勢ながら大胆に足を開き 夜着もはだけている。しかしその裸体の肌は暖かみを感じさせない。その大胆な姿態には秘められた園の中にいるゆえの 誰に遠慮する必要もない気ままさと開放感がある。そして唯一遠慮する事なく この秘められた園へ侵入できるものは以前は老婆だったが ここでは猫になっている。彼等はそれを許されている。何故なら彼等は決して秘密を明かさない目撃者であり 愛玩すべき存在だからである。そして老婆よりも猫のほうがより抽象的で不可解な存在である。つまり猫は自己完結する園に唯一侵入できる他の者なのである。ここでは他の者を必要としない自分だけの秘められた園の様子とそこに唯一侵入できる者とその関係が描かれている。そして鏡と言う自己愛の象徴もそこに加わる。この余りに微妙な有り様と関係を描いた作品は他に得難いだろう。
また娘と猫の背景は重厚な画肌を持つ紫色で 寝台には2種類の模様と複雑な布の皺が作られている。これらも重厚な画肌を持っている。足元には足乗せの台があり 日本風の手箱が置かれ 布が巻き付けてある。そして娘の手には黄金色の手鏡が軽く握られている。この絵の見所は先の内容だけでなく絵具による質感を作り出す重厚さと丁重さ 構成の入念な均衡 配色の調和と不調和などがある。この充実感は力強く 70才前後になっても衰えを見せず よりいっそうの充実感を作品に与えている。またここでは紫色を使っているがバルテュスの作品では珍しい。 

第三章   P339

339

「あどけなさを包囲する過剰性」

P339。「まどろむ裸婦」 200×150 F130号程度 キャンバスにカゼインテンペラ 1980
何とあどけなく無邪気な寝顔だろう。この眠りには疑いも警戒も悪夢もないし 余計な不安や心配事などとも無関係な 温もりのある穏やかな眠りの中にいる。またそのほど良く力の抜けた裸体は陽の光に暖められている。
幼い娘は窓辺に布を掛け 白いターバンを巻いた頭を乗せている。長くしなやかな両手はお腹の上で軽く組み合わせ 細く長い足は 片方は椅子の上に乗せもう片方は床に投げ出している。そしてその足には白い靴下と黄色い室内履きを履いている。この裸の姿態は寝顔と同じようにごく自然である。それに対して背もたれの立体的な菱形模様や腰掛け台の縁に塗られた赤と黒い線模様 さらに床の市松模様 これらはみな幾何学模様で極端なほど強く 眠る娘の姿態を取り囲むように描き込まれている。それに右側の竹細工のような卓とその上の活けられた花の束も妙に強く細かく描かれている。さらに花の後ろの壁や左側の窓の緑色をした鎧戸 皺の向きが不自然な遮光布 腰にあてたクッションの乱暴なほどの塗り跡。これらは妙にバラバラに力を込めて描かれていて 全体の強弱の均衡を度外視しているように見える。また同じように右の花の束の密度と窓のあたりの密度の違いも気になる。しかし全体の充実感はやはり濃い。それに模様の過剰さや密度の違いに埋もれるように 幼い娘は穏やかに眠っている。つまり穏やかで心和むのはうたた寝をする娘だけで その周辺にあるものは過剰で不均衡な粗密の状態にしている。これは果して意図したものなのか それとも感性の開放なのか または感覚の混乱なのだろうか。感覚の混乱のように見える作品は他にもあるとも思えるが 判別は難しい。年を重ねる事で自らの感性を解き放った一種の自在さであろうか。または穏やかで心和む絵に終る事を阻む バルテュスの感性があったのでないか。
しかしこのまどろむ幼さの残る娘の寝顔は 愛おしいほどあどけなく無邪気だ。それは「美は悪である」と言う言葉を思い出すほど 見る者の心を惑わす魅力を持っている。

第三章   P340

340

「時間に宿る美」

P340。「画家とモデル」 226.5×230.5㎝ S150号程度 キャンバスにカゼインテンペラ 1980-1981
窓辺に立つ画家は窓のカーテンに手を添えて 外光を取り入れるようにして外を見ている。窓の外の様子は描かれていないが暖かそうだ。室内は外より明るく ほのかに暖かみをもった光に満ちている。初夏の頃だろうか 湿度のない軽やかで冴え渡った空気が感じられる。
中央のあどけない娘は椅子の上に掛けられた布を下にして両肘をつき 水色の表紙の本を見ている。顔をややこちらに向けているが 視線は本に向いているので流し目のようになっている。腕は曲げられ しなやかそうな手首の先にある指先で頁をめくっている。その腕の間から覗いている左手もしなやかだが 力を抜いてた指の中で 小指だけを真直ぐに伸ばしている。このしとやかな繊細さは彼女の気品を表している。そして彼女の着ている衣服はウエストを絞っていないワンピースで 色は黄緑がかった白銀のよう あどけない娘によく似合っている。頭から背 そして腰から両足へとゆったりとした曲線で無理がまったくない。スカートから伸びた両足はやや沈んだ色で室内履きは赤味がかった渋い色である。
その奥にある机は紫がかっていて 上には果物が籠に盛られ その横に市松模様の箱が一つ置いてある。この箱は妙に目立つ配色で とても眼を引く まるで画家とモデルに加わる3番目の存在のようだ。これまでの作品では このような場合は猫が描かれていたのだから これはきっと猫の変身した姿だろう。そして机の前の椅子には白と赤色の布が掛けられ 左端には脚立と取っ手のついた容器が置いてある。これらはこの簡素な室内に適度な充足感と変化をもたらしている。
画室での休憩時間であろうか。画家とモデルの緊張感は解かれ 緩やかな時間が流れている。さりげない一時である。このような時に かけがえのないものが全てを穏やかにし 豊かでよい香りをあたりを漂わせる。その穏やかさと香りは色彩に表れている。視覚化された香りは ささやかな憩いという名であろうか。このような何気ない一時には 安らかな美の女神も立ち寄るだろう。この絵はものの美しさを超えた 空気と時間に宿る美を描いている。
しかしこの画室での様子は 27、8年前に描かれた あの P221の「部屋」も思い起こさせる。あの作品にはこのような穏やかで何気ない一時は描かれていない。もっと陰微で濃密な闇が占める室内で起こった 性に関する不穏な出来事を 光と影を使って描いていた。その「部屋」を描いていた画家とモデルが休息するとしたら 画家はカーテンをあけるだろうし モデルは何ごともなかったように振る舞うだろう。こうして見ると この作品は「部屋」のあとさきを描いたものとも思えてくる。しかしそこまで結び付けないにしても この画家とモデルの関係は 美という事件を起こす共犯者である事にかわりはない。

第三章 P341

341

「幼き娘の意志」

P341。「スカーフを持つ裸婦」 163×130㎝ キャンバスに油彩 1981-1982何と言う立像だろう。背筋を伸ばして真直ぐに立つその姿は まるでエッフェル塔のように立ちはだかり その場に君臨しているようだ。
片腕を頭まで上げ腋窩を見せ 眼はクリリとして真直ぐに前を見ている。その頬は赤く染まり 乳房は幼ない者の小ささで かなり高い位置に描かれており その下の胴は丸く くびれはない。ふくよかなお腹は内臓の艶やかさまで表しているようだ。太くて長い足の片方は一歩踏み出され 両足はしっかりと床を踏み強いている。右手は軽く曲げられ青い布を持っており それはまるで戦士の楯のようでもある。この幼き娘は何かに立ち向かっているのかもしれない。美そのものとしての溌溂たる充実感に満ちながら・・また彼女は立ち向かう戦士のようだが 大海を前にして青い旗を掲げる大いなる帆船かもしれない。この椅子と扉しかない室内の中で彼女は帆船と化し 風を受け 陽光を浴び 雲を切って進む者なのだ。それは彼女が意志を感じせさせるからだ。ここには美たる者の意志がある。
そして過去にバルテュスが描いた通りを歩く人物達は 動きを失ったように静止し 石化している言われていたが この裸婦はすでに石化する事から逃れ 羽ばたくための羽を育み終えて 遠くに飛びたとうとしているようだ。しかし色彩は全体に沈みがちで 構築的な姿勢は娘の意志に反して その羽ばたきを押しとどめているようにも見える。バルテュスは彼女の意志を賛美しながら このままでいることを願っているのようだ。

第三章   P342

342

「天使の休息」

P342。「鏡を持つ裸婦」 163×130㎝ キャンバスに油彩 1981-1983
天使の休息。この作品は3作目の立ち姿の裸婦になる。あの P334の「横顔の裸婦」で到達した高みで描いた最終的な作品である。先の作品と同じく簡素化され 具体的な物は少ないが もはや描き込まれてもいない。渋く暗めの室内に幼さない娘は立っていて その髪は黄金色に輝き 額は丸く 顔つきはあどけないが利発そうだ。片手を腰の後ろに回し もう一方の手に手鏡を持って自らの顔を映している。足はそろえて裸足だ。小さな乳房はやはり高い位置にあり 胴にくびれはなく 下腹はふっくらと膨らんでいる。この裸体は性の区別さえない未分化の肉体のように 男女の性の特徴は曖昧にされている。未発達な両性具有者か まるで細長い木の枝のようだが やはり未発達の幼女の特徴を見せている。それは小さな乳房が高い位置にある事と下腹の膨らみである。
このごく自然な立ち姿は 何気なく手鏡を見ていると言う感じだ。この何気ない仕草や立ち姿 そしてその表情は自らの姿に見とれているようには見えない。それはまるで羽をたたんだ天使が休息中に鏡を見つけ その使い方を探しているようだ。彼女らは自らの美しさを確かめる必要などない。美そのものである彼女等は自らの美しさを確認したり 作り出したり 守ったりする必要はなく また驕る事も見せびらかす事もない。つまりこのあどけなく無邪気な幼い娘達は 美そのものであるが その事を知らない。このような幼い美を持つ者とは つまり天使に他ならないだろう。

第三章   P343

343

「不吉な果実と構成感覚の混乱」

P343。「静物」 100×80.7㎝ 木板に油彩 1983
これは年令にして 75 才の時に描かれた静物画である。そして最後の静物画でもある。籠の中は布が敷かれ 濃い紫色の果実で一杯になっている。布も紫がかっていて白と黒の模様があり 籠の取っ手の所で結ばれている。この籠の周りにはワインの入ったグラスと一切れのパン そして柘榴の実が一つ置かれ 画面の周囲は額縁のように塗られている。
これと同じ籠と果実を描いた水彩画が1970年に描かれているが それと見比べると この油彩画のこなれていない生硬さはまるで不器用な初心者のようだ。それでも画面は充分に描き込まれているから 充実感はある。それに比べ水彩画の方は均衡の取れた構成は安定感があり 形態も明確で何一つ不足はない。両作品を見比べていると確かに水彩画の方が出来がよいのだが・・・。東洋の水墨画には技の上手さや達者さ 洗練させる事などを拒否し 破天荒な造形感覚や描き方を尊ぶ表現方法がある。そう見ると水彩画は構成と形態の秩序を守る優等生のようだ。それに対し油彩画の方は型に納まらない稚拙さの自由性を感じさせる。
しかし1980年代のバルテュスの体調は万全ではなく 肉体的にも老いが始まっていただろうから このような不器用さはそのせいとも言える。またこの作品以外にも見られる このような不器用さは感覚の開放を経て到達した感覚の混乱とも言えるのでないか。それよってこのような絵画的な秩序からの離脱や無頓着さを示すような作品を描く事になったと考えられる。この点ではバルテュスの表現技法は 巧みな面と不器用な面を持っていて興味深い。
それにしても籠を一杯にしている果実はなんだろう。無花果だろうか。この果実とそれを包む布の色彩と模様は収穫の豊さと言うより 何か不吉なものを感じさせる。またぶどう酒とパン そして柘榴と言えばイエス・キリストの受難を思い起こさせる。この不吉さと稚拙さはバルテュスの感覚の開放による自由性か または感覚の混乱による自由性なのだろうか。

第三章   P344

344

「形の相似と娘の腹筋」

P344。「ギターと裸婦」 162×130㎝ キャンバスに油彩 1983-1986
バルテュスが裸体とギターを描くのは あの P79の「ギターのレッスン」以来であり 実に49年ぶりとなる。しかしここにはあの加虐と受虐による性的の関係を暴くような過激さはない。
鎧戸のしまった部屋の壁に寄せられた寝台は広く 黄土色に塗られ 裸で眠る幼さない娘も同じく黄土色である。彼女は両腕を上げ腋窩をみせ 乳房は小さく 引き締まったお腹の下には2本の皺があり その下の両足は開かれている。両足の下には白く大柄な格子模様の浴衣が敷かれ それ以外は広い寝台である。そして彼女のすぐ脇には 小さめの白金色のギターが添い寝のように並んでいる。そのギターのネックの下には 紫がかった布が複雑にうねった皺を作っている。
白い壁の広さ 寝台の黄土色の広さ 不思議なほど余白のある配置である。さらに右下にある寝台に掛けられた布などの茶色と黒の強さ そしてその反対側である左端の上の黄土色と茶の生塗りの強さ これらは協調し合っているようだが 娘とギターが弱く見えるほどでもある。画面下に塗られた黒っぽい所も上の窓の格子と協調しているようだが やはり裸婦とギターより強い。これらの強い色彩の配置は娘とギターから離れた周辺に配色されていて 彼女らとは無関係のようにも見える。通常は主役ほど画面の中央に配置し目立つように配色し 脇役は重要な順にその周りに配置し 色彩は弱められるのである。しかしここではそのような定形の手法は取られていない。また娘の寝顔はあどけなく 胴体から下の足は伸びやかだが 上げられた片腕は遠近感を与えられずに その長さは曖昧だ。胴体は未発達な若い裸体としてくびれがなく 乳房以外にも凸凹があり 皺まで生じている。これらは先の P343の「静物」に見られたような感覚の開放または感覚の混乱による自由性なのだろうか または新たな構成の試みなのか。
裸婦とギターは並んで置かれている。女性と楽器 それも弦楽器との組み合わせは絵になる。それはその形の近似からだろうし 形だけでなく 女性の声と楽器の音の近似もある。この関係は性的な意味合いも含まれる。音楽の持つ官能性や食欲が示す官能性のように。だがここでは詩的な抒情性を生む組み合わせであり 両者の形の近似性を描きながら 互いを共鳴させるという主題なのだろう。
しかし完成度の高いギターの形と比べると 裸体の胴体の凸凹や皺は一種の醜さであり 楽器と共鳴しているとは言いがたいのでないか。それともはやはり感覚の混乱か しかし元々バルテュスは整った形への関心よりも 異形を好む傾向があるから その一種だろうか。
要はこの幼さの残る娘の裸体に見られる凸凹と画面構成の広さが気になっている訳で これを無視すれば やはり裸体の手足は伸びやかで寝顔にはあどけなく 白金色に輝くギターとの組み合わせは やはり抒情性を感じさせている。もし眠っているこの娘が目覚めて声を発する事ができるなら いかなる音色を聞かせるのだろう。 

第三章   P345

345

「非現実を展開する室内の不吉と笑い」または「解らぬもの」

P345。「カラスのいる大きな構成」200×150㎝ キャンバスに油彩 1983-1986
これはバルテュスの作品の中で 最も計り知れない内容を持つ作品である。寝台には裸婦が布を敷いて横たわっているが その顔は丸く 目を裏返したように笑っている。まるで日本の狂言回し的な女神であるお多福のようだ。その上半身は逆三角形で逞しく その厚い胸には鍛えられた筋肉のような十字の割れ目が入っている。そして乳房は小さく 豊かさや性的な魅力を持っておらず 下半身は細く手と足も長過ぎるようだ。この裸体は男性的でありながら 女の特徴をわずかに持つ両性具有者のようだ。そして笑いながら差し出されている右手の先には黒々としたカラスがおり 壁に取り付けられた棚板の上から裸婦の様子を伺っている。左下には緑色に塗られた小振りな檻を抱えた小さな男が裸で立っている。また右下には本が蓋のように乗せられた籠があり その脇には鼠のような猫が身体を丸くして眠っている。また背後の壁をよく見ると大きなピラミッド型の三角形などが描き込まれている。それはまるで古代の遺跡に残された未解読の図形のようだ。この壁は この絵の中でもっとも重要とされるほど 手が入れられた重厚な仕上げとなっている。
何故女は笑っているのか 女と鴉の関係は 小さい男は何者か 檻は鴉を入れる鳥籠なのか・・・等々。疑問は深まり謎めくばかりだが 壁に残された痕跡は大いなる時間を経た遺跡が支配する尊重されるべき世界を示しているようだ。しかしこの室内に響く娘の高笑いは奇矯であり そうした考えさえ笑い飛ばしてしまいそうだ。それに例えそうであっても他の意味は解らないままだ。この異形な者とそれらの関係は いくら様々な解釈を尽くしても 決定的な解釈は成り立たないのではないか。つまりこれは謎なのである。
謎には2種類ある。それは解かれる事を前提とする謎と決して解かれる事のない謎である。解きえる謎には示唆が含まれているが 解き得ない謎にはそれがない。ここには示唆らしきものがある。それは解読に到れるのではないかと思わせる魅力を持っている。しかもそれがこの作品の見所であるが しかしそれは解読しようとすると永遠の迷路に入り込んでしまうように 仕掛けられているのではないか。バルテュスがこの作品を描いたのは 1983年の 75才から 78才で 集大成的な作品を描いていた頃である。バルテュスはこれまで現実に想を得て描く画家で 現実性を重要視してきた。しかし決して単なる現実主義者ではなく 動物を擬人化したり 秘められた存在を描き出し また謎めく作品も描いてきた。そうしたバルテュスが謎自体を描いたとしても不思議ではない。しかし謎めくものに姿と形 色を与えるのは厄介なはずで 現実性を持ちながら飛躍させるが やり過ぎてはいけない。そうでないと単なる空想か 奇を衒うだけに終る。だがそれらが上手く行けば 解かれないまま魅力ある謎として永遠性を得るかもしれない。
ここにある謎は鴉と笑う娘 また鴉と籠を持つ男などの関係性で成り立っており この関係を様々に解釈する所に面白味がある。しかし如何なる解釈も歯切れの悪い曖昧さが残るとすれば この謎は読み解けないものであり それは謎ではなく「解らぬもの」である。つまりこの作品は人知を超えた存在とそれらの世界を指し示している事になる。そしてこの「解らぬもの」としてのこの作品を見るなら 微熱を保ちながら斜面を横滑りしていく現在を失った遠い過去とそこに住む異形の者達の世界のようだ。
この作品について節子夫人に問い合わせてみた。するとこの作品はバルテュスの愛読書の一つであった中国の冒険小説である西遊記から示唆を受けており 鴉は知恵の象徴で 檻を持った小さな男はその知恵を捉えようとする者であり 笑う娘はあるがままに万物に接する天真爛漫な存在であるとの返事を頂いた。

第三章   P346

346

「重く暗い感情の痕跡」

P346。「眠る裸婦」 93×118㎝ F50号程度 キャンバスに油彩 1983-1986
この荒々しいほど力強い描画力は何なのだろう。布の敷かれた寝台に若い娘は裸体のまま 横たわり 寝入っており 傍らには鉢に植えられた花が置かれている。しかしここにはあどけない寝顔も 初々しい裸体の輝きもない。下腹が膨らんでいる裸体は立体感を持ってまるまると描かれているが その色彩は緑色がかり 重く暗い。背景も同じで重く暗い。しかも全体は荒々しいほどの力強い筆致が施されている。その力強さは怒りを込めたようにも見える。何故 眠る者の姿を これほどまでに重く暗く描くのか。5年前に描かれたD1393の素描と比べるとその違いは明らかで そこには均衡の取れた形態と丹念に仕上げられた明暗が描かれている。しかし油彩画の方では寝台に横たわる裸婦は力強いが 敷いてある布や枕元の花等の描写までには その力は及んでいない。そしてこの力強さの中には 怒りを込めるようなぞんざいさが感じられる。この作品は75才から78才の間に描かれているから 他の似た作品のように老いによる肉体的な衰えか 感覚の混乱かと考えられるが・・・。
ここにはかつての身支度をする娘達で描かれた生命の輝きはない。もはや若い娘の裸体は表現の素材に過ぎなくなり そこに込める言葉にならない抽象的な感情こそ重要なのでないか。怒りを伴った強い願いのようなもの 思い通りにしようとするがままならない自分への憤りだろうか。この絵には絵画の構築よりも画家個人の押さえきれない感情の爪痕が刻まれているように思える。

第三章   P347

347

「秘められた美の園からの脱出」

P347。「鏡猫 2」 200×170㎝ F140号程度 キャンバスに油彩 1986-1989
「鏡猫 2」は「鏡猫 1」と同じく 若い娘と手鏡と猫を描いているが 各所に変更が見られる。娘は裸体から着衣姿になり 寝台は寝椅子に 猫は三毛猫に さらに布等の模様や皺も変えられている。また娘の姿勢も変更され 左足を手前に曲げた分 自然で楽な姿勢になり 片手に手鏡を持ち もう1方の手には櫛のかわりに本を持っている。この小さめの本を持つ指は真直ぐに伸ばされ 人さし指を本の間にはさんでおり 繊細な扱い方をしている。娘は首周りのやや開いた長袖を着ており この黒と珊瑚色の組み合わせは印象的だ。腰には青緑の布を巻き 下半身は青黒っぽく裾の短いズボンを穿き 足先は素足である。「鏡猫 1」に描かれていた足置き台と日本風の手箱は省かれているが 女性の顔だちと猫の種類や歌舞伎に使われている柄と色彩から 日本風な感じが強まっている。このために節子夫人を描いた他の作品のように 西欧から見れば異国情緒を持った作品に見えるだろう。猫の仕草も変更され 手鏡に映っている自分の姿に片手を出してじゃれようとしている。この猫の反応は実に感じが出ている。
「鏡猫 1」は身支度をする半裸の娘であったが この「鏡猫 2」では着衣姿で本を持っているので 身支度する娘ではないと言う事である。身支度をする娘は 秘められた美の園に住む者であり その園の中で自らの美しさを映す大切な鏡を使って猫と戯れていた。しかしここでは秘められた美の園ではなく 本を読む束の間の戯れとなっている。この変更は大きい。
変更後の人物の姿勢は自然で安定し 娘と手鏡と猫の配置は三角の構成に巧みに納まり 色彩の強さや配色の独自性もある。そしてこの三者のいる長椅子の背後や周辺は暗く 何も描かれていないから 長椅子は闇に浮ぶ舟のように独立して見える。まるで彼女らはあの香しき美の園から船出して 星も見えない闇夜の大海に浮んでいるようだ。しかし孤独には見えない。それは娘と鏡と猫の3つが作り出す関係が充足しているからだろう。身支度の秘められた美の園から抜け出させた理由は この三者の関係を際立たせる事にあり あのような魅力ある場にあっては 三者の関係が半ば埋没してしまうと考えたのだろう。
それでは娘と猫と鏡とはどのような関係なのだろうか。娘と鏡は切り離せないもので 鏡は望ましい自分に化身するための魔法の道具であり その一方で本当の自分を映し出す真実の道具でもある。そして猫は人間とは異なる世界に住みながら 最も人の生活に自由に出入りできる他者でありながら親近者である。そして動物の美しさを愛玩できる限られた存在でありながら 人間からは見えない動物世界にも住んでいる謎の動物でもある。それ故に魔術的な世界に通じている者とされたりする。そしてその眼は目撃者であり その口は沈黙の証言者でもあり 時には共犯者にもなりえる。そのような猫に鏡を見せるとは正体の露呈を求める事であり または化身を誘う事でもあるだろう。また猫と娘は化身やその不可解さが似ており 互いに実体に捕らわれない魅力を持つもの同士である。このように三者はそれぞれに深いつながりを持っている。
このような三者の関係を一つの世界にまで至らせるために 身支度の美の園から抜け出させたのである。しかしまだその世界の確立は充分とは言えず やはり「鏡猫 3」まで待たねばならない。しかしこの「鏡猫 2」によって「鏡猫 3」に至る足掛かりが出来たと言えるはずだ。

第三章   P348

348

「3つの関係によって成立する宇宙」

P348「鏡猫 3」 220×195㎝ F150号程度 キャンバスに油彩 1989-1994
「鏡猫 1」は身支度をする若い娘達の集大成を示した作品であり 「鏡猫 2」は身支度をする場から抜け出させる事で「鏡猫 3」への飛躍を得た作品である。そして「鏡猫 3」では若い娘と鏡と猫による三位一体の関係によって一つの完全な世界を確立するに至る。
これは「居間 1,2 」「三姉妹 1,2 」「夢 1,2,3 (黄金の果実)」などでは果たせなかった到達地点である。これは大いなる最晩年に達した得た最も重要な成果である。そのためには「鏡猫 1」で使われた身支度をする娘という秘められた美の園をやめて「鏡猫 2」を描き そこでは日本風をより強調しながら 3つの関係を際立たせようとしていたが「鏡猫 3」では異国情緒もやめている。この秘められた園や日本風の様式はバルテュスが独自に作り出した貴重な表現世界であったにもかかわらず あっさりとやめている。どれも違うと思えたのだろう。そして「鏡猫 3」ではトランプをする人達で描いていた中世風の時代性を取り入れている。しかし中世風なのは娘が着ている衣装だけで 他は幾種類もの布の模様や柄 そしてそれらが作り出す皺などであり 特に時代を表すものはない。つまりここで重要なのは時代離れした中世風そのものではなく 特定の時代から切り離す事によって普遍性を得る事である。娘はいつものように片膝を立て 片手には手鏡を持ち 長椅子の端に座る猫に向けている。しかし猫はそれに反応していない。否 鏡がどちらに向けられているかも 猫の反応も もはやここでは重要ではない。3者の関係はそのような些細で具体的な事に左右されないほど 確かな関係にあるからである。この3者の関係は 娘は美であり 鏡は化身と実体を表すものであり切り離す事は出来ない。猫は娘の世界に介在する異性を超えた他者で 娘と同じく美と化身の存在である。この三者はそれぞれに必然的な結びつきを持ち バルテュスが独自に成立させた三位一体である。それはキリスト教の三位一体である父と子と精霊の関係を求めているかのようだ。
しかしこの「鏡猫 1」が「鏡猫 2」を基にした変更ですぐに成立した訳ではない。A図は最初の完成状態であり この段階で一度公開されている。そして B 図はそれに手を加えて完成させ 東京展の公開記念に公の前で署名している。しかしその後にさらに手を加えて署名もし直し 現在の状態に至っている。それぞれの変更は足乗せ台が省かれ 寝椅子に背もたれが加えられ 腰に巻いた布が写実的になり 細部の模様や色彩の強弱の調整が行なわれた。この中で最も重要な変更は足乗せ台が省かれ 全体がより完全に背景に取り囲まれた事だろう。これによって長椅子は暗黒に浮ぶ舟となり それに乗る三者の関係は漆黒の空間に瞬く星々が星座によって結びつくように 一つの宇宙となったのである。  
挑発的な性や秘められた美の世界など強い魅力もさる事ながら ここには関係によって成立する一つの世界があるが それは表現を目指す者にとって究極の到達点である事を この作品は示している。
この作品に無惨さを見る者もいる。確かに筆致は力強いがおぼつかなさが見られ 造形と構成の不安定さや配色の無秩序感などが見られる。確かにこれらは晩年の一つの特徴でもあるが それは老いによる衰えや自己の開放による感覚の自由と混乱によるものであるかもしれないが それは具体的な技術面のみを取り上げているのであり 作品の表現内容が成し遂げた成果とは別である。またそのような負性があったからこそ このような表現に至る事が出来たとも言えるのでないか。つまり巧みさや理にかなう事では このような世界を描き得ただろうか。そしてこのような高齢(81才−86才)にありながら 作品をより一層の高みへと押し上げる力の強さは老いに勝っていると言えるのでないだろうか。

第三章   P349

349

「陰惨なほどの暗さ」

P349。「モンテ・カルヴッェロの風景 2」 162×130㎝ キャンバスに油彩 1994-1998
何と恐ろしい絵だろう。「鏡猫 3」が完成した1994年から描き始めいているが 完成は 1998年で4年後である。モンテ・カルヴッェロの風景は以前にも一枚描いていて 構成はほとんど同じだが それとは比較にならないぐらい様相が違っている。左側の岩肌の露出した山とその下に広がる遠近感の失われた農地は同じだが その奥には地平線が現れ 遠くに青い山脈が描かれている。手前の丘にも石塀に囲まれた建物が描き加えられている。手前の建物は小振りで童話に現れてくるようだが 左側の山はまるで灼熱を帯びた溶岩の固まりのようだ。血腥ささえ感じる。遠近感を省いた広大な農地はまるで壁のように立ちはだかり 遠景の青い山との関係を失っている。農地に流れる河は白く青いが強すぎて色彩による遠近法から逸脱している。ここには通常の前後関係を示す遠近感はなく面の量感が塊となって画面を占有している。そして色彩は濃く 塊となった面の量感に恐ろしいまでの力と暗さを与えている。それはまるで恐怖や脅迫観念さえ感じさせる。この恐ろしさはどこから来るのだろう。手前の建物の尋常さからすれば感覚の混乱に身を任せて描いたとは思えない。尋常でないのはその向うの塊となった面の量感と色彩 そしてその筆致なのだから。「モンテ・カルヴッェロの風景 1」では 手前は現世でその向う側は黄泉の地であると考える事ができたが この絵ではもはやそのような客観性はない。作品と描き手の感情と想いが混然としたまま一体化したように見える。 これは老いて衰えていく自分への怖れか 制作が出来なくなる事への焦りか 死への恐怖か。バルテュスはこの時 86才から 90才であり 2001年の 93才になる誕生日の前に亡くなっているから 確かに余命は限られている。しかし果たしてバルテュスはそのような個人的な事情を描くだろうか。これまでは自らの私事や感情を直接的に描く人ではなかったし 氏自身も晩年の問いかけに「死を恐れてはいません。私は敬虔なカトリック信者ですから。」と答えている。しかし描き続ける事を最も望んでいたはずである。死は恐れないが 描けなくなる事への恐怖はあったのではないか。それも他の人には計り知れないほどの重さを持って。少なくともそのような強い感情を絵におよぶのにまかせたとしても 誰もその事をとやかく言えるだろうかはしないし 逆にそのような強い感情の籠った作品として受け入れられるだろう。この絵には死に対抗するための力強い呪詛の暗さが込められているように思える。

第三章 P350-P351

350
P350(P349bis)「横たわるオダリスク」 225×232㎝ S150号程度 キャンバスに油彩 1998-1999
天蓋付きの寝台にマンドリンを手にした裸婦は横たわっている。オダリスクとはハーレムなどの宮廷の女官の事である。寝台は壁にそって置かれておらず 寝台の大きさとそこに横たわる娘の大きさを比べると身体が小さくて心細いようだ。娘は片腕を枕にして顔をそむけ もう一方の手でマンドリンの頭を持っている。片足は寝台の上にあるが もう一方の足は寝台からずれて指先を床につけている。楽器と裸体の組み合わせは 互いに感応する所があり 絵にもなる。楽器と裸体の曲線 奏でられた響きと表情 音と肌の色などの関係は官能的とも言える。娘の裸体とマンドリンは90才になったバルテュスが「鏡猫」以後の新たな展開を計る画題であり 手鏡の代わりに楽器を持たせている。娘はマンドリンをつま弾きながら寝入ってしまったのだろう。裸のままで。つま弾かれた弦の音は娘の寝息の中に溶け込んでいったようだ。それとも彼女の肌の上で消えていったのだろうか。

P351「真夏の夜の夢」 162×130㎝ F100号程度 キャンバスに油彩 1998-2000
先の 2点とこの作品は「モンテ・カルヴッェロの風景 2」の後に描かれ ほぼ同時期に描かれている。本作はニコラ・プッサンを讃える展覧会のために描かれた作品である。ニコラ・プッサンはフランス出身で 1600年代のバロック時代にローマで活躍した代表的な画家であり 演劇的で人物の心理を巧みに描き出す作風を得意とした。バルテュスはプッサンの作品を敬愛していて「決してさめる事のない初恋」とまで言っている。
赤黒い岩場のような場所に裸体は横たわり マンドリンを持っている。娘の顔は上向きで表情は分からないが 頭に花の冠をつけ 腕には白い布を巻き 足を大きく組んでいる。裸体の形は不安定だが 肌色は温かく輝いている。その大胆でおおらかな姿勢と「真夏の夜の夢」という題名は 情熱的で幻想性をおびた濃密な官能性を思い起こさせる。シェークスピアの作品にも同じ題名の作品があり 妖精の魔法によって恋の行き違いが起こる物語である。プッサンの演劇性とシェークスピアの恋の駆け引きの巧みさを結び付けて描いたと思われる。

*「横たわるオダリクス」はガリマール社のレゾネでは P349 bisとされているが 本書では P350とし「真夏の夜の夢」は P351とている。

第三章   P352

352
P352「モロッコの思い出−馬上の自画像」 69×66㎝ S20号程度 キャンバスに油彩 1999
91才になって描いた 4枚目の自画像である。バルテュスは 1930年から 1931年の 15ヵ月の間 モロッコで兵役についていたが その頃の愛馬に乗った自画像で兵士の姿をしている。馬の名はラルピアと言い 青い空を背景にして黄土色の砂漠の上にバルテュスを乗せて立っている。この兵役期間はバルテュスにとって異国で過ごした青春の日々で それらを懐かしく思い出しながら描いたのだろう。またそれは国家のための兵役であるから 若かかりし頃の勇姿でもあるだろう。
この異国での思い出には「散歩中にお茶に誘われ 中庭の泉の涼しさとアラビアのお菓子を頂き 甘美な一時を過ごした。」また「馬に乗って散歩していた時 羊飼いが歌うのを聞いたが それはその場所を讃える歌で あまりに正確な描写であったので 強い感動を覚えた。」とも語っている。またこの黒馬はバルテュスが帰国した後 餌を食べなくなり 自分を死なせてしまったそうだ。この別離の悲しみもこの作品には込められているのだろう。青春の様々な出来事はその無垢な感受性によって捉えられ しだいに心の底に貯えられ やがてそこから芽吹いてくるものを人々は青春の思い出と呼ぶのだろう。バルテュスにとってモロッコ時代は青春の思い出と共に表現者としての土壌の形成にも深くかかわった時期なのだろう。

第三章   P353

353

「作品との一体化」

P353「マンドリンと若い娘 (期待)」 190×249.5㎝ F200号程度 2000-2001
遺作。この作品でバルテュスの絵画作品は最後となる。バルテュスは 2001年2月12日午前 2時過ぎに亡くなり その長く濃密な人生に幕を降ろす。
この作品にも最後の画題となる若い娘の裸体とマンドリンが描かれているが 高齢にもかかわらず F200号に及ぶ大作であり 衰える事のない制作意欲を示している。しかし残念ながら未完成である。
画面中央には寝椅子のような寝台が置かれ その上にはしどけない姿の若い娘がマンドリンを無造作に持って横たわっている。この姿態は無防備で大胆である。正面の壁には窓が2つあり 外の風景が見えており 右側の窓は開けられ 白く耳の黒い犬が前足を窓枠にかけて外に首を出している。窓の左側には紫色の遮光幕がニ本の帯で止められているが その大きくうねる皺は不安定でうごめいているようだ。画面左下には木製の椅子が後ろ向きに置いてあり 猫が一匹座っている。室内は茶色と焦茶色で塗られ 床壁の区別は曖昧で暗い。犬と裸婦とマンドリン そして猫。これらはバルテュスの特性の一つである「同居の無関係」を思い出させる。ここでの4者の無関係さは構成の不安定さによって より強調されており 不吉ささえ感じられる。しかし題名にある「期待」という言葉から考えれば 娘の期待は待人であり 外の様子を伺う犬は娘の気持ちを察して 外の様子を伺っているのだろう。それに比べて猫は冷静で無関心であるが それは待つ事の空しさを示しているようだ。この両者の違いは明らかで 犬の正直さと猫の冷徹さは対比的である。また「鏡猫 3」に見られた強く引き合う要素の関係よって成立する世界は解体され またも同居の無関係さに戻されているようだ。しかし「期待」と言う何かを待つ気持ちは このバラバラな関係の中心にあり それぞれを結び付けている。
この作品も制作途中で大きな変更がなされている。大きく変わっていないのは 犬の様子だけで他は初めから描いたほど変えられている。裸婦とマンドリンと寝椅子は姿勢や色 形までも変更され 椅子の上の猫はまったく異なる場所に移動している。この結果 犬と猫は娘を挟んで対極の位置となり 娘の期待に対する正反対の態度を示すようになる。つまりこの未完成の遺作は題名の通り 期待に対する2つの態度が描かれている事になる。しかしそれだけでなく 不吉さなども見て取る事ができるので 期待とは待人ではなく もっと異なるものも意味するかもしれない。余命と終焉 天に召される時。今現在という時間に全てを託して描き続けるバルテュスは90才を超えてなお このような大作に大きな変更を行ないながら描く事は 大変な労苦を強いる作業であったはずだ。しかし相変わらず描きながら自らの画像を追い求めていく その気力は恐ろしいほどだが それは画家自身と絵画が一体化することを望んでいるからではないだろうか。私にはバルテュスは制作を続ける事で 自らを自らの絵画世界に殉教させようとしているように思われる。期待とはそのような意味もあるのではないだろうか。
バルテュスは息を引き取る前に訪れた画室で 家族だけになった時 こう言ったそうである。「続けなければ 続けなければ・・・」と。それは弱くもはっきりした声で画室に響いたそうである。